Photo: 「無敵の心身」
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好きの相乗効果
どうやらこんな私でも役には立っているようだ。

誰かの救いになっているらしい。
誰かに元気を与えているらしい。

そう思えることはやはり嬉しい。
「救われてるよ」とか「元気出た、自分もがんばる」とメールがくる。
それは本当に嬉しいことだ。
それは、私自身、どんな自分だとしても生きていていいのだと思えるからだ。

今まで書いてきたことで、同じものを読んだとしても、傷ついたと言った人もいるし、元気もらったと言う人もいる。
書いた私は一人だ。
だが、受け取り方は様々。
それはあたりまえのことなのだ。
それぞれの人はそれぞれ違う人間なんだから。

「傷ついた」
「元気出た」

そのどちらも間違っちゃいないし、そのどちらも非難されることじゃない。

私はそのどちらの人も好きだし、どちらかが上とか下とかそういうことは全く考えたこともない。
だから、私は自分の正直な気持ちを書くしかないんだよね。

たとえば、一旦書いて公開した記事を削除してしまったことが過去にあるが、どうだろう。生まれる前に削除したら(つまり頭で考えて結局は書かなかったってことになるが)堕胎したことになるのだろうか。
その時、削除する前に記事を読み、削除したあとにも読んだある人が、メールを送ってきてくれた。それは削除した記事に文章を引用させてもらった人からだった。

「心打たれた」と書かれてあったよ。

私が書かなくてはいられないという気持ち、それがひたむきだと言ってくれ、そしてそのひたむきさが痛いと言ってくれた。そして、私にとって憧れの人が特別であるように、私が誰かの特別になっているのだと言ってくれた。

だから、あなたはあなたのまま突き進んでいけばいいと。

「ひたむきな態度というのは、負けない強さじゃなくて自分を信じる強さの現われだと思う」とその人は言ってくれた。

その人は昔から「ちょっと考えかた違うときもある」と正直に伝えてくれていた人だった。
恐らく、今までも、私の書いたもので傷ついた事もあっただろう。
しかし、私の書いたもので落ち込んだとしても「それは自分が何かを感じているときなんだと後で思った」と言ってくれた。

私は、そういう彼女に感動したよ。

傷ついたら、やたらと攻撃したがる人もいる中で、私の書いたことを曲解せずにきちんと自分なりに咀嚼し、自分の糧にしていってる───

勿論、私もいつも正しいわけじゃない。明らかに間違ってることだって言ってるさ。自分ではなかなか気付けないと思うが。私は神なんかじゃないからね。
だから「それ間違ってるよ」って言ってくれるのは構わない。
だが、その言い方は考えて言って欲しいと思っている。
同じことを言われても、その言い方次第で反省もするし、怒り出すこともある。
指摘する側も勉強は必要なんだよ。

こんな風に他人の言葉で元気になるのは、他の人ばかりじゃない。
私もそうなんだよ。そして、数は少ないが、私は私に元気をくれる人たちが大好きだ。

好きという言葉は、あまり言わないほうがいいという説もある。どうも安売りみたいで「好き」という言葉自体の効力がなくなるとか、ありがたみがなくなるということなのかな。

だが私はそんなものは信じない。
「好き」という言葉はどんどん使うよ。
使えば使うほど、それにはより強いパワーが宿ると私は信じているからね。

人に見られれば見られるほど女が美しくなるように。
書けば書くほど文章が上手になるように。

「好き」と言えば言うほど「好き」は大きく膨れ上がるのではないかと。

私はそう思っているよ。
君はどう思うかな?
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想いは伝えて欲しい
ある方が、自分の想いを伝えるということはしないと書かれていました。

私にも今好きな人がいますが、その方のように積極的に伝えようという意思は持っていません。ですから、その方のことをとやかくは言えないのですが、伝える努力をしないと言っている言葉を聞きあまりいい気分になりませんでした。努力はした方がいいのではないかと思ったからです。
私は積極的には伝えていませんけれど、私なりに好きな人に気持ちを伝えているつもりですから。

かつて私は子供の頃に、好きな相手に好きであると告げないまま友人と一緒に好きな人をからかい苛めたことがあるのです。子供というものは得てしてそういうものなのですが、私もご多分に漏れずそういう愚かしいことをしていたのですよ。
私は好きだという気持ちが相手に伝わると信じていたのですが、考えてみたら相手も私と同じ子供です。勿論想いは伝わることはなく、他人に横から掻っ攫われてしまいました。しかも、私が嫌いな人間に、です。
私は一体何をしていたのだと悔やみましたよ。
掻っ攫った人間のように面と向かって「好きだ」とも言わずに、ただからかっていただけなのです。これでは嫌われてもしかたないことでしょう。

私が今好きだと思っている人は、きっと私の気持ちも受け入れてくれると思います。今は、私なりの伝え方をしていこうと思っています。
先に述べた「伝えることはしない」と言われた方も、それでも「伝えたい気持ちはある」と書かれていたので、必ずしも絶対にしないというわけではないと感じました。

なかなか人というものは素直になれないものです。そしてまた、そういう素直になれない人を私は好もしいと思ってしまうようです。
それは恐らく私自身もそうだからなのかと思いましたが、どうでしょう。それとも素直だから、そういう素直じゃない人に惹かれるのでしょうか?

何れにせよ、想いは伝えた方がいいというのが、私の正直な気持ちであるようです。
何時までも
見つめていたい。
大切なその人を。
辛くても悲しくても泣いても。
何時までも見つめているよ。
君が知らなくても。
君が応えてくれなくても。
それでも君は私にとって大切な人だから。
君が何時か幸せになれるまで。
そして、幸せになったとしても。
私の前から消えない限り。
私が探せる限り。
見つめ続けるよ。
君が心から笑ってくれる日を願いながら。
何時までも心だけは君の傍に飛ばしている。
君の周りの空気が何故か温かく感じられたら。
それは私だと思って欲しい。
私だと気が付かなくても。
誰かが抱きしめてくれているんだと。
そう思って欲しい。
大好きな君。
私は此処で君を心ごと身体ごと抱きしめているから。
忘れないで。
君を大好きな私がいるということを。
何時までも忘れないで欲しい。
何時までも。
血液型より情熱型です
あちらこちらで血液型のことを書いている方がいたので血液型について私も考えてみたいと思います。とはいえ、完全に検証なしで考えることなので、深く突っ込みを入れないよう願います。する人もいないでしょうけど。

私はA型です。

完全主義者です、遂行はできない志しだけは完全主義者という人間ですが。石を投げられそうですね。

私はAB型、あるいはB型に憧れていますが、なれるものならO型になりたいと思っています。O型の知り合いを見ていると気楽でいいなあと思うからです。
勿論、彼らには彼らの悩みもあり、のほほんと気楽に生きているように見えても私には計り知れない何かを抱えているのかもしれませんが、取り敢えず私も、一度は「何とかなるさ」という気分を味わってみたいのですよ。

そういえば、A型とB型は相性が最悪と聞きましたが、私には意外にもB型の友人が多いのですよね。リアルでもネットでも何故か何時の間にかB型と仲良しになっているのです。
ただ、何となくA型っぽいB型の人たちだよなあという印象が彼らにはあるのですが。

何にせよ、血液型で全てが決まるわけでもないし、私は血液型で「あんた嫌い、あんた好き」と言う輩は信用していません。どのような血液型でも、好きなら何とかなる、情熱さえあれば何処までも行けるさ、さあ、行こう───ですよ、私はね。

意外と情熱家な私です。こんな私は如何ですか?
狭い世界の王様
「終わりなき退屈な日常」

これは、私のブログでもリンクをしている方のブログで見つけてきた言葉です。
日本人にとってインターネットとはどういうものかで導き出された言葉で、ネット上で繰り広げられる知的遊戯は、そういう退屈さを過ごすために生み出された文化なのだろうかというような事が書かれてありました。それを見て私は大いに頷いていました。

ネットの世界は文章だけの世界です。それだけではないでしょうけれど、大体においてまず文章が書けないと何も始まりません。
文章を上手に書くことができるというのは、何となく賢く見られるところもあったりします。
しかし、これもよくよく読んでみると、賢そうな文章だと思っていたら「なんだ、この人頭悪いじゃん」となるときもある。またその逆で、賢い人間が馬鹿を装うこともある。そういうのを見破るところに知的満足感を得る人もいたりするでしょう。
それは現実が退屈だから、その退屈を紛らわすことが知的満足を得るということなのだろうかと私は思ったわけです。その知的満足感を得るために皆ネットを彷徨い、そして、それを満たしてくれる場所を見つけたときにどっぷりとそこにはまってしまうのかな、と。

ただ、私の場合は、他人が認識している退屈というものからネットにはまっているというわけではないようなのですが。
やらなければならないことは山ほどあるのです。でも、それが出来なくて、つまりはそれから逃げたくて、ネットをうろついてしまうのですね。しかし、そうそういつも相手をしてくれる人が見つかるわけでもないので、ついつい余計なことまで考え込んでしまい、そして垂れ流しのように文章を書き続けている───退屈といえば退屈なのですが、暇でしかたないから退屈とは違うのですよね。

その方が取り上げている2ちゃんねるの話にしても、ああいう場所なら相手にしてくれる人もたくさんいるでしょう。その題材が真実だろうが虚構だろうが関係なく、知的ゲームが出来さえすれば群がる人々は多いようですから。
私は頭がよくないし、反応が遅いので、ああいう場所ではどうも気後れしてしまうので見ているだけなのですが、掲示板の管理人が言っていたように「熱い人、一生懸命がんばっている人を馬鹿にしている」とは言え、私から言わせると、馬鹿にしている対象に対して馬鹿にしているその人たち自身も「熱く、一生懸命に馬鹿にしている」ように見えるのですがね。つまり、どちらもどちらといった感じでしょうか。
勿論、中には本物のシニカシズムを醸し出している者もいるようですが、それはごく少数で、大多数が「熱く一生懸命な2ちゃんねらー」という感じがしています。
私の気持ちとしては、知的遊戯というのにはとても憧れているので、私もそういう仲間入りをしたいと思っていますけれど、如何せん中身がスカスカで格好ばかりの人間なので、一人でブツブツと呟いているだけなのですが。

そんなわけで、私も狭い自分だけの世界で王様を気取っている恥かしい人間には間違いないようです。
手を繋ぎたい
そんな問い掛けをしているブログがあったので、私も考えてみました。
本来ならそちらへ書き込みすればいいのでしょうが、最近の私は気後れしていてどうも出来ません。申し訳ないです。


さて、手を繋ぐ、ですか。

私には好きな人がいるのですが、その人と手を繋げたらもうそれだけで一生幸せになるのではないかと思っています。でも、その人とは絶対に手を繋ぐことはないでしょうね。相手は私の存在さえも知らないと思いますから。
ただ、もしも手を繋ぐことのできる状況になったとしても、果たして手を繋ぐだろうかというのは疑問に思っています。

私は人と接触することに極度とは言いませんが、軽い嫌悪感を抱いてしまうからです。

それは相手がどんな相手でもそうです。接触するということ自体に嫌悪感を持っているようなのです。A型なので、潔癖症とでも取られてしまうかもしれませんが、私はそんなに自分が潔癖症であるとは思っていません。

とはいえ、口付けもあまり好きではないので、手を繋ぐという行為も好きではないというのも自分では納得しています。

所謂緊張し過ぎるということでしょうかね。好ましく思っている人とでも少し距離を持って接してしまうところがあるようです。
以前、ネットで知り合った友人と直接お逢いしたことがありましたが、私はその友人を一目で好きになりました。デパートを一緒に散策したり、お昼を食べたり、喫茶店でお茶を飲んだりと楽しく夢のような時を過ごしました。そして、一緒に写真を撮ろうということになり写したのですが、友人がぴったりとくっついてきたのに困惑したのですよ。

私の好きな人は日頃から「手を繋ぎたい」だの「寄り添いたい」だのと言っていまして、気に入った人は初対面でもすぐキスやハグをしたがるのですが、私には考えられないことです。
くっつかれることが嫌だというわけではないのです。
くっついてくれるということは、私はその相手に嫌がれているわけではなく、気に入ってもらえたのだなあと分かるのですが。くっつかれると、身体が強張り、動悸が激しくなり、顔は火照り、軽く気分が悪くなる───

そうか。

緊張してしまうからなのですね。
昔からそんなところはあったかもしれませんね。緊張するとよく吐き気で苦しめられていたので、それの名残があるのでしょう。
しかし、緊張をしない人間になりたいと思っていてもなかなか直りません。また、全く緊張感がないのも困りものですし、ほどほどがないというのも辛いところです。
ただ、手は繋ぎたいと思います。気持ちはとても繋ぎたいと思っているのです。それは間違いありません。

もし、私の好きな人と手を繋ぐことができたら───少しはこの緊張癖はなくなりますかね?
払いましょうよそれくらい
とあるブログで見かけたのですが、給食費を滞納する親がいるということです。
学校側が強く言えないということをこれ幸いと踏み倒し続けているということですが、何とも情けないことですね。

それで思い出したのですが、今日のニュースで似たようなことが報道されていました。
それはネット通販による被害で、通販で品物を買ってそのまま金を支払わない不届き者がいるというものでした。
実際未払いしている相手側にもインタビューをしていたのですが、入院していたのだの子供が入学しただのと苦しい言い訳ばかりしていました。あげくに「払う気はありますので」と言っていたのにも関わらず、インタビューから三ヶ月経っても未だに支払ってはいないそうです。

ネット通販ではそういう被害もあるでしょうが、逆に買う側も被害に遭ったりすることもありますよね。
そういうことで、前払いにすると品物がきちんと送られてくるかが買う側の不安に繋がり、なかなか購入してもらえないことにもなります。難しいところです。
私はネットで本やCDを購入したことがありますが、カードを持っていないということで現金で購入しています。現金ですから代引きです。
詳しい事はわからないので何とも言えないのですが、通販ではカード払いでなければ代引きでやっているのではないのでしょうか?
私の印象だと、代引きであれば金が入らないということはないような気がするのですが、それとも代引きであっても「今持ち合わせがないので」と言って商品を受け取っているのでしょうか。

それにしても、ニュースで紹介されていたのは蟹や米といったものでしたので、払えないほど高い金額とは思えないのですがね。全く、払うべきものはきっちり払いましょうよ。払えないのなら最初から買うな、ですね。
給食費云々を書かれていた方のブログにも書かれてあったように、それこそ携帯には払う金があっても、蟹には払う金がないということでしょうか。それなら蟹など食うなと言いたいですね。
JFK狙撃ゲーム
ケネディ米大統領暗殺事件を模し、ケネディ氏を画面上で狙撃するシュミレーションゲーム「JFKリローデッド」が発表されました。

このゲームは最高成績獲得者に高額賞金が贈られるそうですが、バッシングを受けているそうです。
既存の事件を模すゲームは今までにもあるのですが、製作者側はその都度「歴史を知るのにも意義がある」というような詭弁を弄しています。
現にこのゲームを製作したトラフィック社は「若い世代に関心を持ってもらうのが目的」と言いますが、本当に若者が関心を持つと思っているのでしょうかね。
賞金を付ければ確かに多くの人がゲームに参加するでしょうが、そういう金目当ての人間が純粋にこのゲームで歴史を知ろうとするとは思えないのですが。

私はゲームに詳しくないので当然そのような歴史を知ることの出来るゲームなどやったことはないのですが、戦争ゲームならまだしも、こういう要人を狙った事件、或いはごく個人的な殺人事件などをゲームにすることが果たして歴史を知ることになるのか甚だ疑問です。
そのような取ってつけたような大義名分など掲げずに、「売れるから」とでも言えば潔いのですがね。
もっとも、だからと言って売れるなら何をしてもいいのかと叩かれるのは落ちですが。

暗殺ゲームだとか戦争ゲームなどを否定するわけではないのです。そういうもので戦争や殺人の愚かさや残酷さを知るというのも大切だと思いますし、人の命の大切さを考えるきっかけも出来ることでしょう。ですが、それは良質なゲームに限りです。
このJFK暗殺ゲームが本当に良質であるか、企業側のやり方を見ていると私にはどうもそうは思えないのですが、如何なものでしょうか。
プリペイド携帯
今朝の新聞に載っていたのですが、犯罪の温床になりやすいプリペイド式携帯電話を販売禁止にしようという動きが与党から出ていたところ、結局は見送られたということです。

危機感を強めていたボーダフォン側が「欧州ではプリペイドが主流。世界に禁止した国はない」と言っているそうですが、そもそもスタートからして間違っていたのではないかと思うのですが。

プリペイド携帯は匿名で購入できるともっぱら言われていました。
購入の際には本人確認しているのではないかと私は思っていたのですが、私の知り合いは友人からプリペイド携帯を譲り受け、それをそのまま使ってる人もいました。
使わなくなったプリペイド携帯でも、追加購入すればずっと使い続けることができるそうです。それが最初に買った人とは限らずに、です。
使われなくなったプリペイド携帯を、巷では売り買いされてもいるようですし。そこに犯罪者は目をつけたのでしょうね。それが現状ではないのでしょうか。

どうして匿名で購入が出来るとしたのでしょうかね。
私はそれが疑問でなりませんでした。
悪用されることは誰が考えてもわかることではないですか。
本人確認をきっちりと取るやり方でやっていれば、そんなに悪用されるということもなかったでしょうに。
勿論、全く悪用されないということはないでしょうが、厳しくすることによって犯罪を少しでも減らす事が出来るなら厳しくする事も必要でしょう。

「本人確認などがあまり厳しいとコストが合わない」という声もあるそうですが、そういう問題じゃないでしょう。
この期に及んでそういうことを言いますか。
犯罪を冗長させているのは誰あろうあなた方ではないのですか?

きっちり落とし前はつけてくださいね。
何故だ?
今頃になって何故登録をするんだ?
彼の考えることはわからない。
随分前から話をしていたはずだ。
だから何時まで経っても登録してくれないので嫌われているのだろうと思っていた。
嫌われているというのは言い過ぎかもしれないが、私は彼の興味を引かない人間なんだろうと思い込んでいた。
彼の文中リンクから色々なサイトに飛び、少しづつ仲良くなれそうな人を見つけたものだったが。

わからない。
今までと違う事柄が起きると妙に及び腰になってしまう。
私もまだまだだな。
まさか
君とは気まずい関係になったので、私はずっと君のサイトには行かなかったのだ。
君から一行だけのメールが来て不審に思い、彼のリンク集から飛んでみたら、何と私をリンクしていたのだね。
確かにリンクフリーとはしていたから、それに対して私は何も言えないのだが。

だが何故だ?
何故今頃メールを送ってくる?

私は確かに見つめていると言ったような覚えがある。
だが私は興味を無くした相手は徹底的に冷たくする人間だ。
それは相手も私に興味を無くしたと私が感じた時もそうだ。
君は私には興味を無くしたと思っていたんだよ。

そうか。
静かに見つめていたんだな。
私はずいぶん長いこと君を見ていない。
君があのブログサイトで日記を書いていたことも知らなかった。
君のブログのリンクに、私も知っている詩のサイトもあったね。

君は私と繋がりたいと思っているのか?
私はどうだろう。
繋がりたいと思っているのだろうか。
好きになってくれ
私が生き生きしていると以前言ってくれた友がいた。

人から見れば私はバイタリティの塊で。
でもどうしてそうであるかは分からないわけで。
恐らく友も何故なのかは気付いてはいなかったと思う。

友と私は立場も環境も違っていた。
だから理解しようと思っても限界は出てくる。
だが、それをちゃんと伝えてくれていたから私は信頼していたのだ。
自分のことをしっかり話せる人は信頼できる。
だから私も自分のことを細かく話していたのだ。

でも、そんな友とも別れてしまい、友の言葉だけが残っている。

「最近の私は、人は救われる事はあっても、人を救うことはできないって思ってしまっているから」

だから声はかけない。見つめるだけだと。
だが私は彼女とは違っていた。
私はどうしても手を差し伸べてしまう人間だった。

友は「振り向いたらそこにいる存在でいい」と言い、私は「振り向かせてそこにいる存在がいい」と言ったのだが、今の私は「振り向かせる」という行為はなんと愚かで馬鹿げたことなのだろうと思っている。

でも、それでも、今も私は「振り向いてくれ」と言い続けている。「好きになってくれ」と、私も好きになるから、と。そう言うことは相手にとっては苦痛でしかないことも分かっていても、それでも───

私から好きになった相手とことごとく関係が壊れると、どうしてもそういう気持ちになってしまうものなんだよ。そのジンクスを打ち破りたいと思っている。過去に別れた人々のことを思うと切実に。だが、怖い。また壊れてしまうのが。

だから、私は言うしかない。

私を好きになってくれ。
私を受け入れてくれ。
私もあなたを好きになる、そして受け入れるから。
誰にも奪えない
2004年11月20日は特別な日。
少し日にちが過ぎたけれど、私も此処で静かにお祝いしたい。

あなたの成し遂げたことは誰もあなたから取り上げることは出来ない。

あなたが幸せならそれでいい。
あなたのおかげで私も此処まで来れた。

あなたを知れてよかった。
あなたを好きになってよかった。
あなたを何時までも応援している。
分からないだと?
私は動物愛護に熱心というわけではないのですが、さすがの私も今朝の新聞には憤りを感じました。或いは呆れ果てたというか。

犬や猫の手術に26%の獣医師は「必要ない」「副作用が心配」などの理由で鎮痛剤を使用せず、投与の基準もまちまちだというようなことが書かれてあったのです。

なんと、鎮痛剤なしに手術しているのですか。

信じられませんでした。
今まで私は飼い犬など去勢は必要だと言い続けてきましたが、そんな手術を施しているなら去勢手術を受けさせることが動物のためであるとは言えなくなるではないですか。

自分が手術を受けたことがある人ならその気持ちは分かると思います。
いくら犬猫が人間ではないと言っても、痛みは感じているわけですよ。
そんな残酷なことをしている獣医がいるとは。

記事によると、比較的負担の小さい去勢手術ではあまり痛そうな様子が見えないということで、それを使わない理由にあげていました。
しかし、動物たちは飼い主が見ていないところでは弱みを見せないように痛がらないこともあるそうで、恐らくそれをまに受けて鎮痛剤を投与しないのでしょうね。

それよりも一番私が気になったのは「どの鎮痛剤を使ってよいかわからない」という回答です。それがプロの言うことですか?
分からないのなら獣医などなるな、と私は言いたいですね。
痛みの分かる医師になりましょうと習わなかったのでしょうか。もっと勉強して欲しいものです。
近づかないで
ああ、そうだね。
私もそう思っていた時もあったよ。

相反する気持ち。

人と関わりたいと望み、人に傷付けられたくないと思い、そのどちらにも定着しない自分に歯がゆさを感じ、荒れて荒れて大事な人たちに当り散らした。

それを皆は許してくれだが、それを何度も許せる人などいるはずもない。成長のない人間は信用もされない。

誰も近寄らないで、だけど見つめていてと訴えてはいたけれど、そんなことは私に言う資格はないのだ。

己を知ってもらうには、受け入れてもらうには、まず己から近づかなければ。私の中のマイナスのジンクスを打ち破りたい。私から話し掛けた相手とは必ず関係が壊れる、というジンクス。だから、相手から話し掛けてくれるのをひたすら待つ。それが私。

いつか私から声をかける時は来るだろうか。
今はまだ時が満ちていない。そんな気がする。
罵りの言葉
ある人の日記に、誰のことも悪口を言わない人がいたら、その人は一目置かれるだろうけれど腹を割った話のできる仲にはなれないだろうなというようなことが書かれてありました。

確かにそうですね。私もそう思います。
だから、私も様々な人の日記を読ませてもらい、好感を持つのは大体に置いてあからさまに自分の内面を書いている人だったりします。
私も昔はそういう日記を書いていましたね。
今はどうだと言われると、今ももちろんそうでしょう。
私がここで書いているエッセイも言うなれば日記ですから、私もかなり自分の正直な気持ちを書いていると思っていますので。

ただその人は、だからといって悪口を言うことを奨励しているというわけではなく、悪口を言うときにはどんなにもっともらしいことを言っていたとしても、醜い顔をしているのだよと締めくくっていました。

そうは言いますが、私は少し違う意見です。
どのような内容が悪口になるかは誰一人として同じではないでしょう。
私にとって吐き気がするくらいの悪口だったとしても、他の誰かにとっては「それくらい当たりまえ」と取られる場合もあります。万人が等しく同じ受け取り方をするなんてあり得ないのです。
そうですね。
私も応援している大好きな人が、かなり口汚く悪口を言われているのを見ましたよ。
でも、そのほとんどが、そう言われても仕方ないだろうなあという印象を抱きました。
だからといって、そんなに酷い言葉を投げつけるのはどうかとは思いますけれど、そうは言ってもその言った人たちに対して「やめろよ」とは私には言えませんでしたね。それは、私もその気持ちが分かるからです。
まったく悪口を言われない人など、この世界には誰もいないと思います。
どんなに他人の悪口を言わない人だって、その清らか過ぎることによって悪口を言われる可能性もあるのですから。

そういえばこの人は、最後に、愛のない罵りの言葉は聞いていて耐えられないというようなことを書かれていました。
思ったのですが、それはちょっと違うぞと。
罵りはどんなに愛があっても相手には届きません。他人がはたから見てもいい印象は持たないでしょう。
罵りは所詮罵りです。何もそこにはありませんから。

愛のある忠告とか、愛のある批評とか、せめて愛のある非難という表現が妥当ではないでしょうかね。
差別に普遍性はなし
差別用語にも繋がる言葉に対して、私はどちらかというとそれほど嫌悪しているわけではないのです。

例えば看護婦という言葉ですが、この言葉は別に差別用語というわけではないと思うのですが、男性の方も看護についているということで今は看護士という呼び方になっていますよね。
しかし、何故統一しなければならないのかが、私のような凡人にはどうも理解できない。
女性は看護婦、男性は看護士と呼んでもいいのではないかと。

上記の話題は、ある日記を読んで思ったことなのですが、その方は「痴呆」の呼び方が「認知症」に代わるのだと書かれていました。
やはり「痴呆」という言葉がよくない印象だからということなのでしょうかね。
少なくとも私はそうは思わないし、その方も差別意識は持たないと書かれていました。
しかし、私たちがそう思わなくても、そう感じてしまう人もいることは確かなのでしょうね。そうでなければ、名称が変わるということもないでしょうし。

あと、その方が書かれていたこと、性器の名称なども言葉にしにくいということで思ったことは、日本語名称と外国語名称ではどちらが言葉にしにくいのかなあということです。
私は日本語名称にそこはかとない色気を感じて好きなんですがね。外国語にはどうも情緒が感じられなくて、それほど好きではないのです。

それにしても、差別というものは個人の気持ち次第であり、普遍性はないと思うことは乱暴でしょうかね。
不思議だ
久しぶりに彼女のサイトの規約をじっくりと読んでみた。
思い出したよ。
初めて彼女のサイトに訪れたとき、いきなり挨拶して書き込みする私が暫く見ているだけだったと。
いや、違うか。
とりあえず挨拶だけはしたかな。
なんだ、よく覚えてないんじゃないか。(笑)

ただ、ほとんどのサイトがリンクフリーであるけれど、彼女のサイトはそうじゃなかったんだ。
だから、いつもなら即刻リンクするところを躊躇いがあって相互リンクを願い出れなかった。
それはなぜか。
敷居が高いと思ったんだよな。
それは覚えている。

恐らく、彼女と私は本当ならこんなにうまくいくはずがなかった。

今でも正直言ってうまくいっているとは思えない。
けれど、距離を保ちつつ付かず離れずを心にとめているつもりだ。
たぶん、ここで私がまったく彼女に接触しなくなったら、何事もなかったかのように私たちは別れてしまうのだろうな。

彼女だけだよ。

何も私に対して行動を起こさなくても、私がそれを許しているのは。
彼女だけには、長い間接触を断ち、ひょっこり書き込みに行っても普通に話ができる。

それが信じられる。

彼女だけは信じられる。
彼女は私を信じているかどうかは分からないがね。
現実逃避
ある日記を読んだら、その人は癒しという言葉が大嫌いであると書いていました。

その日記はM女史の日記なのですが。

以前仲良くしていた友達が、それと同じことを言っていたなあと思い出し、けっこう「癒し」という言葉が嫌いな人がいるのだなあと思いましたね。

私はどうなんだろうと考えてみました。

私の場合も恐らく「癒し」を求めてはいないのだろうなと思いました。少なくとも今は。
でも、癒しが欲しいときもあります。
それは心も身体もボロボロになった時、そんな時に何も考えず、何もせず、じっとしたままで癒されたいですね。

今の私はM女史と同じで、所謂詰まった状態。焦った状態。そんなところでしょうね。
そういう時に現実逃避が始まるわけです。
やらなくてはいけないこと、つらいこと、そんなことから逃れたい───M女史は「一瞬でも」ということを書かれていましたが、できればずっと忘れていたいと思う私は、本当に自分で自分が許せないと思います。

いえ、そうじゃない。

許せないのなら、何らかの行動を起こしていると思うので、この場合は明らかにそんな自分を許して甘やかしているのでしょう。
現実逃避として、とりあえず今この記事を書いていることもまさに現実逃避とも言えるのですから。

M女史は一瞬忘れるために酒と買い物に走ると言っています。
私は間違いなく「書くこと」で忘れようとしています。もっとも、今日はどうも書く行為さえも止まっていますが。
あまり動いているとは言えない思考も、本日はさらに拍車をかけて凍り付いているようです。
今日は世間は静かですね。皆さん、噂の映画を見に行っているのでしょうか。

何だか今日の私は愛に飢えているようなそんな心持がしています。

……ここは笑うところですよ。面白くも何ともないですね。
出演辞退
今朝の新聞を見ていたら、韓国の俳優ペ・ヨンジュンが紅白歌合戦には出ないと言っていると書かれてありました。

彼は、自分がうまくやれる仕事ではないというような事を言っているそうですが、思わず私は「何だそれは?」と思ってしまいました。
別に彼を非難しているつもりはないのですが、何となく傲慢な印象を持ったのですね。
謙虚と取れるかもしれませんが、別の見方をすれば「紅白ごときに」と取られる場合もありはしないかと、そういうことです。

私はかの「冬のソナタ」も見ていないので、なんやかやと意見は言えないと思います。
けれど、私にとって魅力的な男性とはどうしても思えないので、つい彼に対してはうがった見方をしてしまうのです。何だか彼の態度はあまりにもいい子的な感じがして、私は好きじゃないのです。

彼は「何人かのスターが中心にいるのは好ましくない」と言っているそうですが、スターとはそういうものだと思うのですが。
私にとって彼は好きなスターではないのですけれど、それでも彼は間違いなく人気スターではあるのです。そんな恵まれた才能を持っているのですから、もっと堂々と輝いていてもいいのではないかと思うのです。

皆平等に──そういう気持ちが悪いとは思いませんが、芸能界で活躍している時点ですでに特別な存在なのですよ。そのことを忘れずにいて欲しいと私は思います。

もっとも、特別であることを当たり前に思い込んでしまい、兵役逃れをすることは言語道断だと思いますがね。誰とは言いませんが。
嫌悪感を持ったのは
そうか分かったよ。
君に嫌悪感を持った理由。

詩に感想を付けるとしたら、自分の感じた気持ちを相手に伝えるだろう。
ところが君は、相手の感じ方に否定的な答えを返してくる。
素直に感じたままをこちらは伝えたつもりなのに。
そんな答えが欲しかったわけじゃないのに。

分かっているよ。
どんな答えが返ってこようが、最初から相手に期待しなければ落胆もないわけで。
それに対して切れることは愚かなことだと。

だから何も言わない。
君に対しては何も言わない。
そんなつもりではなかったと、君が言い訳するのを聞きたくない。

そうやって少しづつ君は大切な何かを失っていくのだ。

もっとも、君にとっての私が大切かどうかは疑問だけどね。
もう私にとってはどうでもいいことだ。勝手にしろ。
少なくとも私から君に話し掛けることはもうないから。
何なのだ?
いきなり「大好きだーーー」と叫ばれても、私には訳が分からん。
そもそも君とはもう随分話をしていないじゃないか。
最初は分からなかったぞ。
一体誰からだと思ったが、名前が名前だから君だろうなあと思っただけだが。
レスを返すか?
無視するか?
無視しよう。
君の相手は私にはつとまらないよ。
頼むから一行メールは止めてくれ。
喋り続ける人
鬱で苦しんでいる人やリストカット常習者の人が、自分と似たような状況の人を見つけると、自分の経験とその人の経験をリンクで繋げてしまう。

ある人が上記のようなことを日記に書いていました。

誰かが同じような状況の人を見て「よく分かるよ」と思い、何とかして助けてあげようとしている場面は、私もよく見てきました。恐らく、それは特殊な状況じゃない人も「この人と自分は似ている」と思えば、手を伸ばし声をかけたくなるものだと思うのです。

何故自分と同じ状況の人に思い入れをするのでしょうね。

私なりに考えてみたのですが、矢張り自分がそうされたいと思っているからなのかなあと思いました。
勿論、そんなに単純な事じゃないでしょう。
日頃から声をかけて欲しい、構って欲しいと思っていたとしても、いざという時にそれをされたら非常に嫌だったということはよくあることです。本人さえもそう言うことに気付いていなくて、それをされてやっと気付くという場合もあることですしね。

でも、ほとんどの場合は自分がそうされたいから、声をかける、構ってあげるというのが普通であると思うのですよ。

この日記を書かれている方は、さらにこんなことを書かれてました。
ある人が日記で弱音を吐いたら色々な人から叱咤激励をされていたらしい、と。そういうのを求めている人、嬉しい人もいるからいいとは思うけれど、だけど、相手と自分は違うんだけどなあ、と。つまり否定的なわけですよね。
確かに日頃から注目している相手、気にかけている相手だとしたら、「こうしてほしいのかな」「これはしてほしくないことなのかな」と分かるのでしょうけれど、私はどうもそれは幻想ではないかと思うようになりました。
思いやりを持っていれば分かるものだと言う人もいます。
しかし、「分かるものだ」という言葉自体、それは傲慢な言葉ではないかと思うのですがね。
分かって欲しい、分かってくれと思うはいいとしても、自分がされたくないことをされたからと言って切れるのは如何なものかと思うのですよ。

以前私もよく叱咤激励する側の人間でした。(だからといって自分を正当化するつもりはないので、誤解しないでいただきたいのですが)
よく他人の日記にすぐ反応して、自分はこう思うよ、こうすればいいかもみたいなことを言ったものでした。それが私にとっては一番相手の事を思っているという行動だと信じていたのですよ。
ですが、この日記の方は自分ならそんなことはしないと言います。
たとえば「死にたい」と言う人に、いきなり叱咤激励ではなく、まず「どうしてなのか?」というようなことを聞くのだそうです。

だけど私は言いたい。

これもまた全ての人に対して「どうして?」と聞くことはマズイのではないでしょうか、と。
その言葉もまた、叱咤激励する人たちと同じなんだけどなあという印象が私にはありますけれど。
少なくとも、私が弱音を吐いたときに「どうしてなの?」と聞いてくる人には何も話せなくなるでしょうね。
「どうして?」という言葉は質問です。
たった一言「死にたい」と綴られている言葉なら、それもありでしょう。
でも、例えば私の場合「死にたい」と言うなら、それは何故かということを延々と喋り続けると思うのですよ。いえ、間違いなく喋り続けるでしょうね。そんな相手に「どうして?」は愚問でしょう?
そういう喋り続ける人には、何も声を掛けない方がいいのではないかと、話をただじっと聞くだけがいいのではないかと、最近の私は思うようになりました。

そうか。それで誰も私には何も話し掛けてくれないのですね。
では、延々と自分の気持ちを吐露しなければ、誰かが声をかけてくれると言うことですか。
しかし、私は喋り続けることは止められません。私の口を止めるものは何もないのです。

私は喋り続けます。

そういえば、こんな言葉を聞きました。「何も考えない人ほど永遠に喋り続ける」と。ふむ、それはそうかもしれないなと思いました。
読吐き
ああそういう奴だよ。
あなたはそう言うだろうなと思っていたよ。
思わず書いた私が悪いのだ。

あまりにも当たり前過ぎて反吐が出る。
文豪の作品
知り合いが言っていました。

とある番組で、スランプに陥って曲が書けない時は、行き当たりばったりな単語からとりあえず無理やり作ってしまうのだというのを見たと。
そして、それは文豪の夏目漱石やSF作家の星新一もそうしていたということで、創作論の一つなのだそうです。

文豪で思い出したのですが、この間読んだ新聞にも文豪の話が載っていました。
それには、最近の教科書には漱石も鴎外も載せないと書かれてありました。
私もそれほど好きではない文豪たちですが、文豪の書く物は何も楽しむために読むものではないということも分かっているつもりです。
私個人の気持ちとしては、せめて教科書だけでも、楽しむではなく無理やりにでも文豪たちの書く世界を体験し、勉強したほうがいいのではと思うのですが、乱暴でしょうか。
無理やりという言葉は言い過ぎかもしれませんが、矢張りそういう文豪たちの作品は奥が深いものであり、如何様にも解釈ができ、勉強するにはうってつけだと思うのです。

何でも記事によれば、今の若い人たちは文豪に片山恭一や宮部みゆき、江國香織を上げているそうです。何とも嘆かわしいことです。
漱石や鴎外、あるいは三島由紀夫も今だからこそ文豪だと言われるのでしょう?
今の若い作家たちが、現在文豪であると言われてもそれは違うだろうと思うのですが。今はまだ流行作家の類としか私には感じられないのですがね。
せめて没後に文豪かどうかは決めるものだと思うのですが、如何なものでしょう。
文豪の作品は、時を越えても読み継がれるものであって欲しいですから。

ちなみに、文豪たちの作品は読まれないわけじゃなさそうですよ。
記事によると最近では新聞などで名作というタイトルで紹介しているようですし、それはけっこう読者の反応もいいようです。
深く考えたいと思っている人たちには、文豪たちの作品は考えるきっかけを与えてくれそうですね。
特に創作に関わる人たちは、せめて有名な作品だけでも押さえておきたいものです。
間違えられて
橋田信介さんがイラクで武装勢力に殺害されたのは、CIAと間違えられたのだそうです。
昨日の新聞に橋田さんの奥さんの手記が載っていました。
そうか、日本人だったからというわけではなかったのですね。

記事によるとこうです。
橋田さんの乗った車が現場を通る一時間前に、それとよく似た米情報機関CIAの車が通過しました。
武装勢力は、その帰りを待って襲撃しようとしたのですが、橋田さんの乗った車が通ったため、間違えて銃撃したのだそうです。

それを知ったからといって、橋田さんたちが帰ってくるものでもないのですが、奥さんとしては「なぜ?」という思いが強かったのでしょうね。
それにしても、あれから半年、ずっと奥さんはその真相を求めて奔走していたのでしょう。この人はすごい人だなあと思いました。私にはきっとできないことでしょうね。

橋田さんは「自分の目で現実を見ようとする若者が好き」だったそうで、きっと天国にやってきた香田証生さんに温かい言葉をかけているだろうと奥さんは言いました。

本当にそうなんだろうなと信じられる一言でした。
私は純粋ですか?
ある人が、相手の放つ言葉には何か隠されたものがあるのではないかと日記で書いていました。
その人の言うことは私には頷けることでしたね。
私も間違いなく相手の言葉をそのまま信じる人間じゃないですから。

その方は、ストレートに感情表現をしないという人だから、そういうふうに相手を見てしまうと言っていました。
それでは私はと言うと、私のことをストレートに感情表現しないとは誰も言わないのではないかと思うのです。
なのに、相手の言葉には何か裏があると感じてしまう。それはなぜか。

私も裏があるからですよ。そんなことはあたりまえじゃないですか。

ただ、その方もそうなんですが、こうやってここで不特定多数、あるいは特定の人に「私はこうである」と言うこと自体、すでに裏がないということになりますよね。
本当に裏がある人というのは、絶対に公の場所では己の思っていることや考えを明かさないものです。相手が誰であろうとも。
だから、その方が、ストレートに感情表現している人に対して純粋でうらやましいと言っていますけれど、私から見れば「あなたこそ純粋だなあ」と思うわけです。

その人に聞いてみたい好奇心に駆られることがありますよ。あなたは私をどう見ていますか、と。
その人が知る私は、恐らくストレートに感情を出していると思われているのではないでしょうか。

わかりませんがね。聞くつもりもないですが。
吐き気が止まらない
呟きばかり更新して何になる。
私には書きたいものがあると言うのに。

読んでしまったよ、全てを。

相変わらずだなと苦笑しつつ、此処の寒さに震えている。
明日熱出したらあなたのせいだよ。

一つあなたに嘘をついた。
その嘘は永遠にあなたには教えない。

ああ、明日こそは呟き以外のものを書きたいよ。
何のために此処で書いているのかわからないな。


君よあの人の前から消えても私の前から消えるなよ。
お休み。
わろた
少々攻撃的な気持ちになる。
いや違うな。
憐れさを感じてしまった、その人に。

久々に彼の周辺の人たちのサイトを覗いてみた。
彼は相変わらずの毒舌だ。
その事にはもう何も感じない。

彼の関心を引きたがっているとは思っていたが、その人はまた新しい場所を二箇所も借りて書いていたよ。
嫌いではないし、素直じゃないところが私はけっこう好きなんだが。

だが彼に構うのが気に入らない。
君くらいの人なら彼など鼻にも引っ掛けないと思っていたのにな。

そんなことを言ったら、自分はそんな大層なもんじゃないって言うだろうか。
聞かないがね。

  

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