Photo: 「無敵の心身」
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奈良女児殺害犯人逮捕される
多くは言わない。
私の言いたい事は分かるだろう?

彼女と同じ目に。
或いは極刑を。

それだけだ。
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忘れていく事が失恋なのだよ
「恋を失うことが失恋」

違うよ。
忘れていくことが失恋なんだよ。
私にとってはそうなんだ。

誰かと交換できると?

まるで彼女が呟いているような言葉だった。
私にとって君は一番の存在だった。
間違いなく私にとっての大事な存在。
掛替えの無い存在。
誰とも交換の出来ぬ存在だったのだ。

君は感じなかった?
君は私の一番だったという事を。

君も忘れていくのだろうか。
私の事も私達の間の甘い想い出も。
全てを?
その人のように「忘れていくことが悲しい」と思ってくれるだろうか?

思ってくれるだろうか。
思って欲しいよ。
反応のある記事、無い記事
力を入れて書いたからといって、自分の満足した反応が返ってくるわけではないという事はよくあることだ。
それは私自身もよく経験する事でもある。
彼は正直者だな。
彼の書いた記事を読んで、自分の書いた物への人々の反応に敏感である事が良い事か悪い事か、それは人それぞれなのだなと思ったよ。
知り合いはそれを気にするがあまり、サイ自体を潰してしまったものだが、彼はそういう悲劇には至らないのだろう。
潰れた人々を多く見てきた私は、記事に対しての反応を考える事はあってもそれをネタにして書かないようにする事が正しいのだと思ってきたが、そうでもないのだなと此処に来て気付いたような気がする。

それにしても、矢張り彼の書く記事はつまらない。(笑
だが、それであっても更新されれば読んでしまうという事は、つまらないというわけではないのかな。
そういえば、知り合いの女性も「もう更新しません」と書いたら、アクセスがアップしたと嘆いていた。
それこそ「更新しない」という内容の記事はつまらないと思うのだが、私と同じような関心を相手に対して持ってしまったということか。
馬鹿なのはあなた方ではないのか?
頭の良い人間は己で何とかして這い上がろうとするが、頭の悪い人間はほって置けばますます勉強しなくなる。

頭の良い人間とはどんな人間だ?
自分で何とかできない人間の何処が頭が良いと言うのだ?

昔、クラスでも優等生だった奴が「もっと難しい問題をさせてください」と言ったこともあったが、頭の悪い連中ばかり優遇して頭の良い自分が何故お前ら頭の悪い馬鹿に合わせねばならんのだと言う奴は、本当に頭が良いと言わない。
何も平等にせよと言うわけではない。
出来るか出来ないかはどうしたって差は出てくるものだ。
だが人並みの考えが出来るように基礎は必要ではある。今の義務教育ではその基礎を覚えるのも危ういではないか。

子供には基礎を徹底的に叩き込む事だ。
少々辛い思いをさせてでも子供に基礎知識は詰め込むべきだ。

出来ない人間に教育するのは無駄という考え自体が頭の悪い証拠だ。
ある程度の所まで引き上げるようにするのが国の義務だろうが。義務を放棄するなよ。
もしかして、あれか?
愚鈍な国民であれば操作しやすいという思惑でもあるのか?

全く、だからお偉い人間は嫌いなんだよ。頭の悪い私にさえも頭が悪いと思われるくらいだからな。
恐らく、子供の頃に「頭の悪い奴なんかほって置いて授業進めてください」などと言っていたのかもしれないな。勿論、これはただの想像だ。だが、そう思われてもしかたないと思うぞ。
トラックバック
ぶんだばさんのブログで「恥ずかしながらTBについて今ごろ考えてみる」という記事を読みました。

私自身はトラックバックはしませんが、初回にも書いているようにトラックバックをされるのは構わないと思っています。
友人たちには全く関係ないのにある記事にトラックバックをされて困惑したと言っている者もいましたが、そういうものは即刻削除をしてしまえばいいでしょう。
中には相手側に何もリアクションせずにそのまま放置をされている方もいますが、それもまたありでしょうね。

ところで、私のブログでも初めてトラックバックなるものをして下さった方がいたのですが、飛んでみたらURLが違っていたのですよ。
ですが、違ってはいてもTOPは存在していましたし、記事の内容も確かに私の書いた物にリンクしているものでしたのでご挨拶をしたのですが、あれ以来コメントに対してもリアクションがなく、私も少々困惑してしまいました。

それもなんですが、トラックバックのURLが如何して間違って送信されてしまうのかがよく分かりません。
ブログ自体も私はよく分かっていないのですが、兎に角分からない事だらけなので、結局は私なりのルールに則って記事を書いていくだけです。
陶酔して何が悪いのだ
そうか。
君は自己陶酔する人間は苦手なのだな。
ということは、君は彼女を苦手であると言っているのと同じだ。
恐らく君の日記を読んだ彼女は傷付いているだろう。
だが、彼女も昔の彼女とは違う。
殊更に騒ぎ立てる事は無いだろう。

たとえ陶酔系な言葉の数々を書いているからといって、その人が自分の足で立っていないとは限らない。
君はただ単に言葉の響きが苦手なだけなんだろう?
書かれた物だけで相手の中身まで決め付けるのは如何かと思うよ。

私は己に陶酔する人は好きだよ。
それに、君がそうではないとは君自身言えないと思うのだが。
私から見れば、十分君は陶酔系だと思うよ。
君は違うと言うだろうがね。
強姦魔の反省は信じられない
知り合いの日記にリンクされていた記事「ヒスブル元リーダーに求刑18年=まれに見る悪質さ-9人連続暴行など・東京地裁」を読みました。

私はヒステリック・ブルーの歌が好きでした。好きでしたが、そのメンバーの一人が強姦罪で逮捕されたと聞いた時、それほどショックは受けませんでしたね。
ですが、ショックは受けなくても、その犯罪は許せないと思いました。

懲役18年ですか。

「一生かけて償う」という被告人の言葉を私は信じていません。言葉ではいくらでも反省したと言えるでしょうから。
性犯罪は私の中では殺人と等しい程の罪だと思っています。
彼も男に強姦される罰を受ければいい。或いは切り取ってしまって、今後一切性交渉の出来ない身体にしてしまえばいいのです。それくらいしないと被害者の気持ちは理解出来ないはずです。
アニバーサリー・リアクション
先程読んだ日記に書かれていた「アニバーサリー・リアクション」という言葉は初めて聞きました。
そこには簡単に意味が書かれてあり、過去に起きた良くない出来事の日が近付いてくると心身に変調を来たすという事らしいです。

なるほど、私がとある月になるとどうも体調不調になるのはこのせいでしたか。

これとは少々違うかもしれませんが、体調不調だけでなく、その月がやって来ると何かしら良くない出来事が起こりやすいと私は感じているのですが、これも心身の「心」の方に何らかの影響が出ているのでしょうね。

ところで、アニバーサリー・リアクションで検索をかけてみたのですが、かけ方が良くなかったのか、これといった物が引っかかりませんでした。
その中でも似たような言葉「命日反応」というのに当たり、それはドラマ「サイコドクター」で取り上げられていたそうです。
私はこのドラマは見ましたし、紹介されていたエピソードも覚えていましたが「命日反応」というセリフが出ていたことは覚えていませんでした。

身体も心も互いに影響し合っているのですね。人間は神秘の塊です。
刺客を送りたくなる時
同じく私がよくお邪魔している日記に誹謗中傷とも取れる書き込みをしてきた方がいました。

読解力の無さからくる誹謗中傷な書き込みだったわけですが、読み間違えを抜きにしても鬱病の方に対して「自分を可哀相がるな」とは、言って良い事と悪い事があるという事を知らない馬鹿者ですね。

自分自身を可哀相だと思うことはそんなに悪いことなのでしょうか。
鬱病でなくても人間誰しも自信喪失になることはあります。
ですから、まず自分が自分を可哀相であると認識し、そこから自分を愛してやらなくてはならないと思うのです。

では、誹謗中傷をしてきたその方は、一度も自信喪失などしたことがないと言うのでしょうか。自分は可哀相な人間ではないと思っているのでしょうか。
この方は、日記の管理人の子供が犯罪に加担するかもしれないというような書き込みをされていましたが、他人の子供が犯罪を引き起こす心配をするよりも、まず自分が犯罪を引き起こさないか、或いは子供を持つ親だったとしたら自分の子供が犯罪を引き起こさないか、そちらを心配する方が先でしょう?

書かれた文章を見た所、どうやら若者であると思いましたが、そういう馬鹿者(若者)たちに刺客でも送りたくなる事が時々ありますね。
読解力の無い事は罪である
私がよく読ませて頂いている日記の掲示板で少々トラブルがあったようです。
昔、同じような荒らしまがいの書き込みをされてしまった女性がいましたが、その時と同じ印象を持ちました。
内容については詳しく此処では書きませんが、要するに気に入らない事を書いていたからそれについてある事ない事を相手の掲示板に書き連ねるといった事です。
書かれている日記をよく読みもせずに、深読み、曲解の数々で、如何に最近の若者が読解力が無いかの象徴だと思いました。いえ、勿論、年行った方々にも読解力の全くない者もいますがね。

円滑なコミュニケーションを図りたいのならば、まずは相手と何でも話せる基盤を作り上げるのが先決でしょう。それをいきなり批判的な言葉を放っておきながら「話し合いましょう」とは言語道断。何様のつもりだと言われても仕方ないと思います。
そして、そういう人間の常で、何やら小難しい事柄を一気に言い放つ。
文章能力が良さそうでいて、実はただの馬鹿者とはこういう人間の事を言うのでしょうね。己は正しいのだ、正しい事を言って何が悪いと、そう言いたいのでしょう。

本当に頭のいい方は、そのように叩き込むような乱暴な論争はしません。揚げ足取りもしません。
事実を事実として提示するだけであり、それについて自分の考えを述べているだけであるのです。ところが、書き込みをしてきた方は、それに対して自分の考えを示すだけならばまだしも、他人が見ていて不快な言葉の数々を羅列しているのです。確かに書かれている文章は丁寧であるのですが、批判とは名ばかり、誹謗中傷であるという事に気付いていない体たらく、何方かが書き込みされていましたが、読んでいて「呆れてものが言えません」という状態でした。

私が不得意の分野を勉強させて頂いている数少ない日記です。そんな馬鹿者に負けずに、此れからも精力的に日記を書き続けていって欲しいです。私も陰ながら応援しております。頑張ってください。
イラク人質事件のその後
イラクで拉致され、後に解放された高遠菜穂子さんが十一月中旬、北海道で講演会を開いたそうですね。

世間から痛烈なバッシングを受けた上、拉致された時の後遺症も手伝って精神的に追い詰められた状態だったらしいのですが、このように回復された事は喜ばしいと思いました。
ですが、それも恐らく、イラクの人々が未だに苦しい生活を強いられているからという気持ちから立ち上がったのでしょうね。

イラクの人々、そして彼等に手を貸す支援者の人々が今も頑張っている事を知り、泣いている場合ではないと思い、日本とアンマンを往復し、学校再建を目指しているそうです。

あの時に一緒に拉致された郡山総一郎さんもアフガニスタン等で取材活動を再開しているそうですね。
そして、今井紀明さんは、今は学業に専念するということでイギリスに留学されるそうです。

フォトジャーナリストの郡山さんは、自分に出来ることである「写真を使って現実を伝える」ことに力を入れ、高遠さんも「香田さんが見たかったイラクを伝えることが自分にできる事なのだ」と信じて行動を起こしているわけです。
恐らく、殺された香田さんのように「イラクが見たい」という若者がこれ以上悲しい最期を迎えないようにという気持ちからなのでしょうね。
たとえ、あの人質事件が世間の人々に何と評価されようが、本当は彼等の事をとやかく言う事の出来る人間はいないと思うのです。

自己責任だと馬鹿の一つ覚えのように言う人間は、自分が自己責任を果たせる自信があって言っているのでしょう。
しかし、私はとても自己責任を果たせる自信はありません。ですから、彼等に対して「自己責任だから」とは言えませんし、言うつもりもありません。

私は正直な所、彼女が言っている「戦争に加担する国の国民として、償いのために支援するのだ」という言葉には少々承服しかねる所があるのですが、それでも、彼等のしている事は立派であると思っています。

私には彼等を非難する事は出来ません。
願わくは、彼等が再び人質とならぬ事を祈るだけです。
アクセス解析の利用は様々
私のブログもアクセス解析は付けていますが、利用の仕方は人によって様々と思います。

先程読んだある方の日記によれば、どれくらいの人間が来ているかを知りたい為に利用している人がいるのだと思わせる内容の事が書かれてありました。
もっとも、それを書いた方ご自身は、人数を気にする人間に対して嫌悪感を抱いているような事を書かれていましたが。
これはただの憶測ですが、その方は来客人数の把握以外でアクセス解析を利用する者もいるという事を想像も出来ないのでしょうかね。
そう言うその人の日記も解析が付いているというのに、私から言わせれば片腹痛いといったところでしょうか。
恐らく、その方自身がもっとも来客人数を気にしていると思いましたが。

少しばかり有名になったからと言って、そういう驕った考えを公表するのも如何かと思います。最近はこの方の日記は読んでいなかったのですが、相変わらず毒舌のオンパレードで苦笑してしまいました。
しかし、此処まで徹底した態度というのも、逆に凄いものだなとも思いましたがね。

少々話が逸れてしまいました。

アクセス解析は、私の場合ではどのようなキーワードで此処に来て下さるかを判断したいという事で設置しています。
他人がどのような検索で記事を読みに来るのかに興味があるのですよ。
その結果、私のブログでは、矢張り時事ネタ関連で来て下さる人が多いようですね。

日記才人という所にこのブログは登録をしていますが、これは数少ない私の文章のファンだと言ってくださる人の為だけに登録しました。ですから、ご存知の通り、才人の更新は一週間に一度火曜日にしか更新をしないようにしています。
それでも、ごくたまに才人を通してメッセージを送って下さる方もいまして、とても感謝しております。何時も読んで下さり、有難うございます。
何故だろう
君の言い分を読んでいると矛盾しているという思いに囚われるのは何故だろう。

冬に暖かいのは異常だと思うのだが。
その事の方が、君が問題にしている事よりも大変であると私は思うがね。

人間の引き起こすことは何とでもなる。
だが、自然の事はなかなかそうもいかない。

そう言えば、その言葉は彼女がよく日記で書いていたな。
もしや、君も読んでいるのか?
考え過ぎか。
ネグレクトの犠牲者
ネグレクトとは虐待のうちの一つであります。

育児放棄がすぐに思い浮かぶのですが、様々な事象が挙げられるでしょう。詳しいことはこちらで読んでいただくとして、ここではある事例を書き記したいと思います。

私の知り合いの女性には今年中学になる息子さんがいますが、その息子さんより一つ上の学年にR君という少年がいたそうです。今彼は少年鑑別所に収容されています。
彼の家庭環境は最悪だったということです。

彼には妹がいますが、母親は妹を溺愛し、兄であるR君をことごとく妹と差別化して取り扱っていたということです。その理由が自分に似ていないということで。
話によると、確かに顔は父親によく似ていたそうで、言動も少々荒っぽかったらしいのですね。
その父親も息子が鑑別所に送られる前後で婦女暴行の罪で逮捕されたと聞きました。

同じ団地内に住んでいる人から聞いたことによると、父親からは気に入らないことをすると暴力を振るわれ、母親はそれを見て見ぬ振りをし、それどころか一緒になってR君を罵っていたそうです。
気質もあるかと思いますが、そういう扱いを日常的に受けていれば当然のように情緒は不安定になり、学校でも問題行動が目立ってきます。
特殊学級に彼は身を置いていたそうですが、普段は普通の子供たちと何ら変わりはなかったということです。
ですが、一旦自分の思う通りにならなかったり、どうしても欲求が抑え切れなかったりすると色々と問題行動を起こしていたらしく、とうとう盗みを働いてしまったということでした。

R君の両親、少なくとも母親の方は矢張り同じように家庭環境に問題があったようです。
虐待を受けた者は同じように虐待に走りやすいとは言いますが、全ての虐待経験者がそうなるとは限りません。
少々の虐待めいた経験というものは、ほとんどの子供が受けていると思うのです。
暴力とかそういう明らかに虐待と捉えられるものだけが虐待ではなく、過度な干渉や甘やかしも虐待の一つであると私は思っていますので。
全くの虐待無しに育つ子供はいないのではないでしょうか。

しかし、許容を遥かに超えた虐待は、子供に悪影響が必ず出るはずなのです。そして、悪影響を受けた子供は大きくなってからもっと苦しむことになるのですね。
そんな子供が一人でも無くなってくれればと思います。

R君は今頃どうしているでしょうか。
もしかしたら、そんな親から離されたことは幸せだったのかもしれません。
ですが、そんな屑のような親でも、彼にとっては唯一血の繋がった親なのです。
たとえ愛情をくれなかった親だとしても、恐らく彼は親に愛情を抱いていたと思うのです。私はそう思います。
仮面の剥がれる時
「泣きたいことがあったら泣けばいい」

「素直に飛び込んでみればきっとみんな分かってくれる」

これらの言葉で、今まで気丈に生きてきた人が簡単に泣き崩れ、その言葉をくれた人に依存していくのを見てきた。

人とは、こんなにも脆く危うい存在。
そんな人々が私は愛しい。

君は私に似ているよ。
君の親は私の親に似ているし、私も君のようになりかけた。
だが、恐らく私は君のようになることはない。

私は君のように真面目な性格ではないからね。
私は最初から付ける仮面など持っていなかったから。
もしかしたら、仮面を付ける顔自体が存在しなかったのかもしれない。
痛ましい事件
ネットで知り合った女性を殺して、その腹から赤子を奪ったという事件がアメリカであったそうです。(関連記事はこちら→妊婦を殺害、腹部裂き胎児強奪…36歳女逮捕

犯行に及んだ36歳の女性は流産を経験しているということで、子供が欲しかったのではないかと言われています。
最初に私が思ったのは、他人の子供より自分の子供が欲しいとは思わなかったのだろうかということです。
容疑者の詳しい事情がわからないので如何かは分かりませんが、普通に考えれば流産してしまったのならもう一度作ればいいではないかと思うのです。しかし、もう妊娠出来ない体になってしまったとしたら他人の子供でも構わないとなるかもしれませんね。

ですが、普通の感覚ならば、生まれたばかりの子供を連れ去るでしょう。(それも十分悲惨な事件ですが)
それなのに、わざわざ母親を殺害してまでもその腹から取り出すとは、もう異常としか言いようがないですね。

ところが、よく記事を見てみますと、容疑者には二人の子供がいると書かれてあります。
如何いうことでしょう?
初めての子供で流産なら気持ちは分からないではないのですが、既に子供がいるというのに?
残念ながら、私には容疑者のそこまでして子供が欲しいという気持ちが理解できません。

それにしても、本当に痛ましく、そして残酷なニュースでした。
説得力
ワタルさんの「人を説得する時は」を読んでなるほどと思いました。

「人を説得する時には、低い声で、落ち着くこと」

私の知り合いにもそういう人がいました。
ただ、その人はネットで知り合った人であるので、実際は本当に低い声で落ち着いた人物なのかは分かりません。
知り合って随分と経つのですが、ごくたまに何かに憤りを感じているなと思わせるような言葉を発する事があるくらいで、普段は言葉数も少なく丁寧な言い回しで落ち着いているのですね。
ですから、私などは、その人の言葉を読んでいくうちに不思議と落ち着いてくるのを感じたものでした。
そして、その人に、その雰囲気に惹かれてファンになる人も少なくないようです。私もその一人ですが。

現実での言動でもそうなのですが、ネットでの文章でも「低く落ち着いた文章」には説得力があるのかもしれません。
高レベル放射性廃棄物の処分
核燃料サイクル開発機構の廃棄処分地問題は様々な土地で問題視されています。
ニュース等でざっと見たところ、矢張り核燃側に良い印象は持てないですね。

ただ、廃棄処分地に選ばれた土地の人々の言い分を聞いていても、同じように少々嫌悪感を抱きました。
彼等の気持ちも分かるとはいえ、その廃棄物の処分地を自分たちの土地以外にしてくれというのは如何かと思ったのですよ。

では、他の土地の人々のことはどうでもいいのか、と。

勿論、彼等がそう思っているのだとは断定は出来ません。
自分たちのことだけを考えているとは思いたくないし、恐らく違うとは思います。
ですが、核燃側の調査隊に対して住民側が強硬手段で調査の邪魔をしている映像を見ると嫌な気分になるのです。
しかし、一方で、彼等が一刻も早く危険な物を排除したいという気持ちは想像に難くないですから、複雑な気持ちにもなってしまいます。

思ったのですが、その危険な廃棄物をコンクリート詰にして日本海溝にでも沈めてしまってはどうでしょう。いけませんかね、そういう考えは。
もしかしたら、海が汚染されると言い出す者も出てくるかもしれませんね。

本当に難しい問題です。
逢いたいが幸せ
ある人が「逢いたいと思える人がいるということは幸せなんだろうな」と呟いていました。

けれど、その人は、逢いたいと思えることで幸せというその気持ちさえも偽りがないとは言えないというようなことを言っていました。恐らく、人の偽善や偽りを多く見過ぎてきたからなのではないかと思いましたが。

私はその人をずっと見詰めてきました。
人に絶望する瞬間も、そして、人の優しさに触れて感謝しているところも全て。

相反する感情に翻弄されるその人は、見ている私にとってとても辛く、そして無性に愛しい気持ちを抱かせる存在なのです。
ただ、私はその人には逢いたいという気持ちは何故か起きません。
それでも私にとってその人は大切な人であることには変わりないのです。

私にも逢いたいと思っている人がいます。
恐らくこれからも一生逢うことのできない人なのだと思いますが、それでも逢いたいと思えるということは、私も間違いなく幸せなのでしょうね。

私も逢えないことを嘆いてはいませんよ。
逢えなくても逢いたいと思える人に出逢えたことがとても嬉しいと思っています。
たとえこの気持ちが偽物であると誰かに謗られようとも、私は堂々としていたいと思うのです。
なるほど
そう言えば私もよく「独断と偏見」という言葉を使っていたな。
このブログではどうだったろうか。
もう忘れたらしい。

ただ、君が言っているように、意味がないと大多数の者は気付いてもいないのだと思うよ。私もその一人だ。

その言葉を書くことは予防線だよ。
君達のように頭のいい人間ばかりではないからな。

だが、君も無意味な事をしている者の事を取り上げて書いているという、無意味な事をしているのではないかと思うのだがね。
私にしてみれば、私にとって価値のない物には全く興味を示さないわけだから、もし君と同じようにそれが無意味な事だと感じたら馬鹿馬鹿しくて書く気にもならないだろうな。
私は私にとって意味のあることしか取り上げない。
それは君もではないかと思ったのだが、違うのかな。

と、届かぬ私信を書いている私は無意味な事をしているとも言えるか。

いや、違うね。
これは私にとって十分意味のある事なのだ。
彼らは一体誰に殺されてしまったのか
量販店ドン・キホーテの放火火災では三人の尊い命が失われました。

私はその店には入ったことはありませんが、ニュース映像で見た限り、あれではいざという時に速やかに逃げる事は出来ないと思いましたね。
消防局の臨時検査では通路幅の不足、誘導灯の視認障害や消火器の未設置などが指摘されていました。
それなのに、何故あのような危険な場所で営業を続けるのでしょうか。
確かに店を運営するからには、売上も考えていかなければならないのも分かります。しかし、だからといって人の命を奪ってしまうような店の構造はどうかと思うのですが。

「圧縮陳列方法」と言うのだそうですが、床から天井近くまで商品を積み上げていることが、本当に売上に関係するのでしょうかね。
客にとっては、品物が沢山ある安心感が得られるのかもしれませんし、或いは、商品のジャングルとでもいう場所から見つけてくる宝探しの楽しさもあるのかもしれません。そういう事がドン・キホーテの人気の秘密でもあるのでしょう。
その気持ちは私も分からないではありません。
ですが、私は時間の無駄が嫌いなので、これと思った欲しい物が一発で見つからない事にストレスを感じてしまうのです。しかも、私は少々閉所恐怖症気味のきらいがあるので、ああいう店には生理的に入店することは出来ません。

ニュース記事によると、亡くなった若い女性二人はいったん店外に避難したらしいのですが「お客さまが確認できない」と言い再び店内に入ったということです。
安田社長は3人は「(客を守るため)殉職した」と話したそうですが、この「殉職した」という言葉に私は嫌悪感を抱きました。もっと言葉を選べよと思いましたね。

それにしても、未だに続けて放火は起きているそうですね。
社長に対していい感情は持っていないのですが、勿論、一番悪いのは放火する犯人です。早々に犯人が捕まり、きっちりと罪を償って欲しいと思います。
孤独感とは幻のような物
時々見かける「書き込みがなくて寂しい」という言葉は、昔の私がよく言っていた言葉です。

ある方はこのようなブログ形式の日記であると反応が多いようであると書かれていました。
確かにそうかもしれません。
しかし、一概にはそうとは言えないのではないかと思います。
矢張り、書かれている内容とか綴られている文章によって書き込み、或いはメールは多くなっていくと思うのです。

その方が上げていたテキストサイトは、私から見ればそれほどの物を書いているとは思えないサイトではあるものの、かなりのアクセス数があります。
それでも、何を書いてくれるのだろうという期待感があるということで、私も何時も注目して読んではいるのですが、個人的に知り合いたいとは思いません。
時々、ネタとして取り上げさせてもらえればいいかなという気持ちくらいしかありませんね。

アクセス数など自分の評価には全く関係がないように私は思います。

私は一日千から二千というアクセスのあるサイトを一つ運営していますが、リアクションをしてくれるのは数人しかいません。
メールも一人くらいしか送ってきませんし、その一人も数ヶ月に一通という感じですね。
ネットを始めた初期の頃は、他人と交わす文字の会話がとても楽しく、それに溺れていた事もありました。
長文メールのやり取り、掲示板でまでも長文を書き合い、それがとても楽しくて仕方なかったものでした。
今も多少そういう欲求がないとは言えませんが、今の私はとにかく会話よりも何かを書いていたいという気持ちの方が強いのかもしれません。

孤独感を感じていたのは昔の私です。今の私は全く孤独感は感じていません。
孤独感とは己が見せる幻のような物、誰か一人でも確かな存在があると信じる事ができれば、アクセス数などどうでもよくなるし、目に見えるコメント、そして目には見えないメールにしても、それだけが全てではないと思えるようになりますよ。

少なくとも私は、確かな存在を感じています。だから、ブログ形式で書いていてリアクションがなくても孤独とは感じません。
これからも私は、思いのまま言葉を綴っていきます。
シンプルに生きたい
気持ちが変わってしまうことを責められるのが嫌いであると書いていた人がいました。
気持ちが変わるのは当然であるのに、と。
それは確かにそうですね。
ただ、変わって欲しくないと思う人もいるわけであります。
その人は「変わらないのなら人生を長く生きるのは何故か」というような事を言っていました。

「今日も無事に終わった。同じ気持ちを保つ事が出来た。本当に良かった」

私はそのように感じて生きていきたいのです。
他の方はどうなのか知りませんが、私は変わる事に異常なほど怖さを感じている人間です。
変わらない物はないということは勿論分かっているのですが、変化は望んでいないし、出来るなら変わらない気持ちでずっと生き続けたいのです。

願いも望みも目指している物も、多少の変化はあったとしても、ほとんど幼い頃から変わっていない私なのです。
例え、変化しないことは無理だとしても、私は何とか変わらない平静な心を持ち続けたいと思います。

ただ、その人は変わらないことをどうのこうの言っているわけではなく、変わってしまったことを非難する事に対して嫌悪感を抱いているのでしょうね。
別の人の言葉ですが、傍にいないとその人の発する言葉のニュアンスが伝わりにくいということを言っていました。
このようにネットだけの繋がりだと、相手の真意が判断しにくく、自分のことを非難されているように感じることもあるでしょう。
現に、昔の私は変わっていく気持ちに対して憎悪すら抱いていた時期もあったので、その人が私をターゲットにして書いているのではという馬鹿げた妄想までしてしまうのですよ。

落ち着いてきたと思っている私ですが、ネットで拾ってきた言葉のせいで、時々無性に不安感に囚われる時もあるのです。

言葉のニュアンスが伝わりにくいと言っていた人が、一見物事は複雑なように見えるけれど、本当はシンプルなのだと言っていましたが、確かにそうなのかもしれません。
何時でも複雑にしているのは私たち人間の心であるのでしょうね。
その人は本物の男
とある日記をブックマークしていた。
ネタを探して何気なしに先ほどその日記を開いてみたのだが、以前私が読んでいたある男性の日記の事が書かれていたのだ。
同じコミュニティだから彼がその男性の日記を読んでいたことは容易に想像は出来たのだが、私も懐かしく記事を読んでいたら、なんと本人がコメントを寄せていた。

あれから一年か。

そのコメントを書き込んだ人が本人であるかどうかは分からない。
私の日記も読んでいると言ってくれていたが、今でも読んでくれているのだろうか。
実は、私はその人の書いた記事のほとんどを保存している。
私にとっては大切な記事ばかりなのだ。
男の格好よさを存分に堪能できる、そんな記事ばかりを書いていた。
それだけじゃない。
コミカルな話題からエロティックな内容まで、兎に角、男とはこうあるべきだというダンディズムを教えてくれたものだった。

その人の周りにはいつも女性がたむろしていて、それも羨ましかった事を覚えている。
時には子猫に噛み付かれるシーンもあったが、それさえも彼の魅力になっていると思ったものだった。

その彼が───

そうか。元気なのだな。
だが、もう繋がれないのだとひしひしと感じているよ。
また彼の日記を読みたいが───そうか、彼の事を書いていた日記に注目していれば、或いはまた読む事はできるかもしれないな。

ただ、もう話は出来ないだろうが。
読めればいいよ。
私も昔の私とは違うからね。
そっと見守っているよ。
貴方の事を。
生々しい物だけが求められているわけではない
とある方の日記に書かれていたことですが、日記を書き続けることは困難なことらしいのです。

この方も全ての人が困難であると言っているわけではないのでしょう。
少なくとも私は困難ではなかったと思います。ネットでこのように何かを書く以前、手書きで日記を毎日書き続けていましたからね。
時には書くことのできない時期もありましたが、それは決して何も書くことがなかったからではなく、むしろあまりにも日記ネタになりそうな出来事が多過ぎたからだったに他なりません。
では何故、それを書くことができなかったのでしょうか。
それは、起きた出来事を纏め上げる思考能力を奪われていたからなのですね。
仕事が忙しく、或いは、人と人のコミュニケーションを取るのに忙しく、日記を書けない時期はほとんど自宅に寄り付かなかったからでもあります。
何か書こうと思ったら、私は矢張り自宅の机に向かわないと書けない人間でした。
ですから、必然的に書くということはできなかったわけなのです。

それ以降で毎日のように日記を書くようになったわけでありますが、それも別段書く時間が取れるようになったからというわけではありませんでした。
書けなかった時期と同じく、相変わらず私は仕事も忙しく日記を書く時間などなかったのですよ。
しかし、私は長々とノートにペンを走らせていました。
寝る前の時間にお気に入りの音楽をヘッドホンで聴きながら、或いは早朝のちょっとした時間に、まるで憑かれたように書き続けました。
何故そんなに無理してまで書いていたのでしょうね。
その理由は私は分かっているのです。そうせざるを得ない出来事というものが私の身に起こったからなのですから。
書かなければ自分を保つ事が出来ないから、だから私は書くようになっていったのです。

それにしても、今読み返してみても、本当に毎日の出来事を詳細に書いているのですよ。
ですが、そのおかげで、当時の私の様子がよくわかります。
どのような精神状態だったか、どのような人間関係を築いていたのか、ありありと思い出せるのです。
誰に見せるわけでもない日記です。
かなりの悪態をついている日もあります。
間違いなくその日記は見せてはいけない人物の事も書いてあります。
見せることはできないのです。禁断の日記なのです。
それでも、こうやって形として残っているということは、何れは誰かが見てしまうこともあるでしょう。
私がたった今、突然死をした場合、私の持ち物を片付ける人間がいるわけですから、その人が絶対に見ないという保証はありませんからね。

そういえば、他人に見せることを考えた日記はつまらないという意見を読んで思い出したのですが、私のエッセイは読ませる為に書いていますが、以前書いていた読ませる事を考えていない日記より好きだと言って下さる人は多いようですよ。
何も生々しい物だけが求められているわけではないと私は感じているのですが、如何なものでしょう?
もっと自信持てよ
「ソンケーしている」と言う君の言葉が逆の意味で誰かに伝わるということもあるのだよ。

知り合いにそういう人がいたな。
やたらと「尊敬している」と言い立てる奴が。
だが思うのだ。
尊敬していると言うのならそれを目指せと。
己のスタンスを取り続けるという事は、それが最良だと思っているのだろう?
私なら尊敬している人間と同じようになりたいと思うだろう。
だから、君の「尊敬している」という言葉を信じられないのだ。

尊敬しているなら変われよ。

自分を負け組みなどと言うな。

だがしかし、君の言わんとしている事は分かるよ。
私も昔はそうだったからね。
今の私は読まれている事を意識して書いている。
そして、エッセイと呟きをバランス良く書こうと気を配っているのだが、なかなか上手くいかない。
呟きは、それこそ勢いだけで書いているからだ。
エッセイは無い頭を絞りつつ書いている。ネタがなかなか見つからずに四苦八苦してるよ。
だから、つい呟きが増えてしまうのは仕方ないね。

だが私は卑屈にだけはならないぞ。
君の悪い所はその自虐的な所だな。
それだけの文章を書く事が出来て、何故そこまで卑屈になる?
君の日記は十分いい出来だぞ?
アクセス数も、私より何倍も多いじゃないか。
中身が無いと言っているが、嫌味にしか聞こえないよ。

もっと自信持てよ。
考え方は違えども
たとえ君と考え方違っていても、共に歩いて行くことできるよね?
私は歩けるよ。
君以外の人で考え方が少し違っている人も何人かいる。
濃密に付き合ってはいないが、それでも共に歩いていると私は感じている。
そんなふうに君とも歩いていきたい。
君もそう思ってくれると信じてもいいだろうか?
信じたいよ、君とも歩いていけると。
求めてくれるのなら
ある方が「人を好きになるってどんな時なんだろう?」と書いていました。
その方は「相手に未完成な部分とか充たされない部分を見出した時のほうが相手に惹かれているような気がする」と書かれていました。それは私も大いに頷きましたね。

人というのは、絶えず不安のオーラを撒き散らしている者より、落ち着いた人間に惹かれるものだと思うのです。
現にその方も「他人の考えも受け入れられる余裕のある人が好き」と言われていました。
しかし、それでも何故か「余裕があるとはとても言えないような人に惹かれていたりする」とも言っていました。

ある友人は包容力のある人間に惹かれると言っていました。そういえば、その人は昔から随分と年の離れた人を好きになっていたようですが。
そして、何時も傍にいてもらわないと安心できないということも言っており、それもあって遠距離恋愛は駄目だなあと言っていましたね。

私はどうでしょう。
考えてみるに、傍にいてもらえないと駄目だと言った友人と昔は似ていたかもしれません。
けれど、今の私はそうでもないようです。
私は求められれば相手を好きになります。
しかし、この「求められたら」という心理状態は人によっては嫌悪感を示すかもしれませんね。
そうです、義務感のようなニュアンスが込められているからです。
ですが、私に限り、義務感で人を好きになったりはしません。
ただ、私は私という存在にどうしても自信が持てないところがあるので、こんな私を好きになってくれる人はそれだけで愛しい存在となるわけですよ。

私も人並みに、私に興味を示して下さらなくてもどうしても求めてしまう存在というのはありました。
しかし、それは相手も私に求めてくれるのならこの上なく幸せなことなのですが、いつもそうなるとは限りません。気持ちが擦れ違ってしまったら、もう離れるしかないわけです。

様々な修羅場を潜り抜けて来ました。
今ではそれが私の財産となっています。
有り難い事です。
そう思えるまで到達しましたよ。
忘れられない日
今から二年前の今日。
あの人は吐き捨てるように言っていた。
その言葉を。
私に向けられた言葉ではなかったが、私が最も聞きたくない言葉だった。

最初、それが一体誰に向けられた言葉か分からず、ただ恐ろしいほどに気分が下降していったのを覚えている。
何故なら、私もそう言われても仕方のない人間だったから。
実際にその人からは、程なくしてそれに類似した言葉を投げつけられたのだから、私は未来を予知していたのかもしれない。

その日、私は日記に「その言葉が妙に心に残った」と記していたからだ。

私は、そこまで他人を憎んだことがなかった。
どうすればそんなにも相手を憎む事ができるのか、分からなかった。
もしかしたら、私はその人が羨ましかったのかもしれない。
誰かを激しく憎む事が羨ましいと?
そんな馬鹿なと人は思うだろう。
だが、感情の起伏が激しいと思われている私だったが、本当に人を憎むということがどういうことなのか、どうしても理解が出来なかったのだ。

私に告げてくれた人がいる。
何時か必ず私を裏切る人間が出てくると。
私が改めぬ限り、必ず裏切る者が出てくると。
私の心が壊れてしまう日がくると。

そして、それはやってきてしまった。
私のせいだとしても、私のせいではないとしても、それは問題じゃない。
どんなに嫌だと思っても切れてしまう関係はある。
どんなに気をつけていても傷付いたり傷付けられたりするものだ。

ほんの少しだけ運が悪かっただけなのだ。

それを嘆いていても仕方がない。
うまくいかなかったら、忘れて前を向けばいい。
私を真っ直ぐに見詰めている人だけを信じて進むだけだ。

だが、私はこれからも12月5日という日を忘れない。
私は決して忘れることはないだろう。
別れは告げたくない
その人のように私も何度さよならを告げたか。

相手に依存し、相手に甘え、相手を束縛した。
私はそんなつもりはなかったが、無意識のうちにそうしていたのだ。
君を本当に欲していたのか、今となってはよく分からない。
君を無くして悲しんだ気持ちも本当に悲しんでいたのか、それも分からなくなってしまった。

人は皆自意識過剰なんだよ。
私もそうだ。
誰でもがそうだ。
そうじゃないと言う人は、それは気づいていないのだ。

求めることのどこが悪い?
求めなければ分かって貰えぬと信じ込んでしまっている私は愚かなのか?

そうなのだろう。
だが私だけじゃない。
皆愚かな存在だ。
愚かではない人間などいやしない。

さよならと告げたその人の心が流れ込んでくる。
虚ろでいて悲しみに満ちた生ぬるい感情が。

流れ込んでくる。

  

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