Photo: 「無敵の心身」
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最期の願い
バレンタインの奇跡の私の記事にトラックバックをして下さった方がいます。(参照:「生きるとは悩む事、だから面白い-【風変わりな男】」

この方が書かれていた、九死に一生を得た人は何らかの使命があるのだという言葉を読み、思いました。確かにそういう考え方もあるとは思いますが、私はそれだけではないという気持ちも持っていたりします。

ただ彼女は運が良かった、それだけの事であるという考えもあると思うのです。
私は使命だとか運命だとかで縛られる事は良くないという考えを持っているので、やたらと使命なのだからと声高には言いたくないのですね。
助かった本人が使命を感じたら何かをすればいい事です。他人が「助かったのだから、その使命の為に何かをしなさい」とは言えないのではないでしょうか。とはいえ、記事を書かれた方がそう言っているわけではないという事は誤解無きよう願います。

ですから、この方が最後に書かれている尊厳死の話にしても、それほど深く考える事ではないというのが私の考えです。
私にしても家族に迷惑はかけたくないので、不治の病にでもなればその病気に戦いを挑むよりも自らの命を絶ってしまうかもしれないし、植物状態にでもなればそこまでして生きていたくないと思います。
たとえ、もしかしたら何時か回復するのかもしれないという可能性があったとしても、私は「死なせてくれ」と言うに違いないと思うので、私は延命措置はしないで欲しいと言っておくでしょう。

回復した彼女のようになる確率は恐らく限りなく低いのではないかと思われます。私は、そんな賭けはしたくない。元々生きる事に貪欲ではないし、痛い事は嫌いなので、なるべく早く安眠させて欲しい。それが私の最期の願いなのです。
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本当に災いを呼ぶ女なのか
丙午で検索をしていたのですが「丙午について」という記事に目が止まりました。

丙午の女性は忌み嫌われる傾向があるのですが、こういう事も最近よく言われる血液型で差別される事にも通じるものがあり、信憑性はないという事は賢明な方には分かると思います。
「たまごやの四柱推命|丙午(ひのえうま)の話」という記事でも書かれてありましたが、かの有名な「八百屋お七」が丙午の生まれであるという事で「男を食らう」「災害をもたらす」のが丙午生まれの女なのだと決め付けられてしまった故の迷信であるという事なのでしょう。

ですが、そのお七が本当は丙午生まれではなかったのではないかと、先にご紹介した記事の作者が分析していました。それが此方です。→八百屋お七(1668-1683)
それから「八百屋お七と丙午(ひのえうま)」にも同じようにお七は丙午生まれではなく、浄瑠璃の脚色であったと書かれてありました。

それにしても生まれがどうであれ、血液型がどうであれ、それを差別視する人間のなんと愚かな事か。
浄瑠璃でお七を丙午生まれであると脚色しなければ良かったのでしょうか。
60年に一度巡ってくる丙午ですが、その度に出生率が下がっているとか。私の知り合いに昭和41年生まれがいますが、それは男性です。ですが、その彼にも女性の同級生が何人もいますので、彼女等は全て丙午ですよね。
ふと、その女性達の人生というものを垣間見たいと思ってしまいました。本当に災いを呼ぶ女達になっているのかどうか。
虚像の影で
散歩道さんの「韓国女優って大変なのね…」を読んで思い出したのが、アイドル矢部美穂さんの事です。
彼女の書いた「蒼い告白」は読んだ事はないのですが、何でもそれを元にした18禁のアニメーションがあるそうですね。

彼女は自ら進んでこれらをやっているのでしょうか。
私には彼女の本心は分かりません。イ・ウンジュさんのように笑って人々に応え、そして命を絶ってしまう事になる可能性が無いとは誰にも言えません。
彼女が図太い精神の持ち主であり、自らの体験をも創作に結びつける強さがあると信じたいです。

性を売り物にする事は様々な誤解も生むことでしょう。彼女には頑張って芸能界で生き残って欲しいです。
有難う
彼女はこういう話を聞きたいのだ。
彼女には経験がない。
想像だけでは限界が出てくる。
彼女は己に経験が無いから、他人の経験を己の経験として感じ、それを元にして書く。
彼女の声が聞こえるよ。

「もっとあなたの事を聞かせて」
「あなたのことを知りたい」

聞かせてやってくれ。
彼女にあなたのことを。

だが彼女も罵り合って別れた経験がある。
それは現実ではなく、このネットの世界なのだが。
それでも心に受けた痛みは本物だ。
これからも彼女には平穏は訪れないだろう。
しかし、それでいいのかもしれない。
そのままでいい
見ているよ。
コメントはしないがね。
距離を取りつつ、見守っている。

読み手に説明などしなくてもいい。
言葉や接続詞の使い方も気にしなくていい。
文章に神経など使わなくていい。

日記とはそのままの生の声を書けばいいんだよ。

私は「読んでいる」とは伝えないが、それでも君の書く文章は好きなんだ。
どんな事を書いていたとしても、それが受け入れられない事柄だったとしても。

反応が無いと不安にもなるだろう。
だが投票があるんだろう?
それが人々の精一杯の反応なんだよ。
読んでいるよという気持ちなんだよ。
言葉は送らなくても、気持ちを送っているんだ。

私もそうだよ。
君に毎日投票という形で「声にならない声」を送っている。
今の私にはそれが精一杯なんだ。

失いたくないから。
もうあんな想いはしたくないから。

今日もまた声の無い声を君に送るよ。



それにしても、彼女より得票数は高いな。
彼女はきっと凹んでいるだろうな。(笑
果たして幸せか
死んだと判断されていた女性が生きている事が分かったそうですね。(参考:「救急隊員が意識不明女性を死亡と判断 - nikkansports.com 社会ニュース」

別の記事では遺書が女性の自宅に残されていたということで、どうやら自殺しようとしていたらしいのです。
女性は遺体安置室に送られたのですが、検死のために医師が訪れ、そこで女性が呼吸をしていることに気付いたわけなのです。と言うことは、もしかしたらそれまでに呼吸が止まり、本当に死んでしまっていたかもしれないわけですよね。

確かに、他の方々は助かった命なのだから頑張って生きて欲しいと思うのでしょうが、本人にしてみればどうなのでしょうか。
彼女がどういう事情で自殺をしようとしたのか分からないのでただの推測でしかないのですが、何か切羽詰った事で死ぬ決心をしたのだとしたらどうでしょう。生き返っても苦しい事だけが待っているだけだったとしたら、私なら「如何して死なせてくれなかったのだ」と思ってしまうかもしれません。

私は何も死を奨励しているわけではないのですが、本人の事情や自殺に至るまでの背景を知らずに「死ぬはずだった命が助かったのだから、今度は頑張れるよな」とは言えないのではないかと思うのです。
それから、他の方が書かれていた事ですが、もし自分がこの女性のようにまだ死んではいないのに死亡であると判断されてしまったら怖いというのも、それも矢張り状況によってでしょうね。
自殺の場合は「死にたくて」なのですが、事故や病気の場合だとしたら本人は死にたいとは思っていなかったのでしょうから「怖い」と思うのも確かに分かりますから。

ですが、たとえ死にたいと思っていても今回のように助かってしまう場合もある。そして、死にたくないと思っていても、昨日亡くなった中学生の少女のように気を付けていても死んでしまう命もある。
全ては運命であると言うしかない出来事は、実に世界には多々あるのですね。
こんな時に私は何を信じて生きればいいのか分からなくなるのです。

生きる事は幸せなのか。
死ぬ事が幸せなのか。
何故生き続けなければならないのか。
如何して人間は死んでしまうのか。
考えても考えてもどうしようもないジレンマに陥りそうになります。

私は生き返った女性に聞いてみたい。
あなたは生き返って良かったと思いますか、と。
正しさなど存在しない
共存するには偏見を無くす。
それは確かにそうだ。
だが、全ては正しい事を知る事から始まるのではない。
正しい事など誰にも決める事は出来ないのだ。

真実を知る事が大事。

正しい事も正しくない事も関係なく、真実だけなのだ。
惑わされるな。
正しい事などこの世には一つも無いのだ。
その事を忘れるな。
衝動的に自殺より愛の告白を
アメリカでバレンタインに集団自殺を呼びかけた男が逮捕されたそうですね。(関連記事:「米でバレンタイン集団自殺呼び掛け逮捕 - nikkansports.com 社会ニュース」

この男は自分の運営するインターネットのチャットで自殺する仲間を募ったそうですが、中には子供を道連れに無理心中しようとしてい女性もいたそうです。
発覚したのはカナダの女性が「2人の子供を殺してから自殺する」と他の女性が書き込んでいたのを見て思いとどまり通報したからということですが、本当に良かったと思います。

自殺するのは本人の勝手ですが、私は親が子供を道連れにして死ぬのは許せません。
確かに残された子供の事を思えば、共に死んでしまえばという気持ちになる者もいるのでしょうが、それは本当の愛情ではないです。私はそんな自己中心的な親の愛情は分かりたくもない。
本当の愛情とは、子供の為に生き続ける事ですよ。
この子がいるから、絶望の道も歩いて行ける。
この子のおかげで生かされている。
如何してそう思って頑張れないのでしょうか。

勿論、如何しても生きていたくないという人もいるでしょうから止めはしませんが、それなら子供を道連れにするなと言いたいです。
子供は親の所有物ではないのです。
子供には子供自身生きる権利があるのに、親だからといってその権利を剥奪する事は許される事ではないと私は思います。

それにしても記事によれば、容疑者が何故バレンタインデーに決行しようとしたのかを専門家は「孤独を感じやすい日であるため、衝動的な行動を起こす要因となることがある」と話していたそうです。
孤独というものは時として文学的原動力にも成り得ますが、このような褒められたものではない衝動的な行動まで引き起こしてしまうとは、本当に孤独というものは厄介なものですね。

衝動的に愛の告白という事ならば大いに大歓迎なのですが。
運命を受け入れるということ
彼女が言っていた。

運命は誰にも分からない。
分からないから不安に思うのだ。
分からないから恐怖を感じるのだ。
生きるという事はその不安や恐怖と戦うことなのだ、と。
だが逆に美しい物や幸せを感じる事もあり得るのだ、と。
それがその不安に打ち勝つ為の物なのかも知れない。

何が訪れるのかは誰にも分からない。
確かにそうだね。
それは誰でも同じなのだ。
私だけではない。
私だけではないのだ。

きっと受け入れる事は出来るだろう。
きっと。
孤立の感情からは逃れられない
堤康次郎の息子である辻井喬が野間文芸賞を受賞した「父の肖像」で、自らの父親をモデルにして書いていると知りました。

残念ながら私はその作品も読んだ事はないし、彼の父親が西武グループを築き上げ、衆議院議員長まで上り詰めたという事も知りませんでした。
なので、少々ネットで検索してみました。(参照:「堤康次郎(西武グループ創業者)」

そこには堤康次郎の語った言葉が書かれてありました。

「人のやらぬこと、やれぬことのみをやった。それで成功したのである。」

「すべて成功するには、失敗の原因を外に求めず、己れに求めることが大切である。」

人のやらぬ事云々については、ただ当たり前であるという気持ちしか持ちませんでしたが、失敗の原因は己に求めるという言葉は、その言葉自体は当たり前なのでありますが、今の私にとっては「矢張りそうだよな」という共感を持ちました。
私はややもすれば己以外に原因を見つけようとする傾向があるので、なるべくならば反省する時にはしっかりと反省をしたいと思っています。それでもなかなか難しいのですが。

話を戻して、その「父の肖像」を書いた辻井喬氏は父親を「魅力的な男だった」と語っています。
そして、その理由を「内部に矛盾を抱えていたからだ」と言うのです。
小説の中ではこう書かれてあるそうです。

「父は、胸中に分裂した自己を抱いていて、それを統一しようとする情熱に奔走させられた一生を送ったのかもしれない」

ああ、そうだと思いました。
私もまた分裂した自己に苦しめられる場合があり、それを無理やりにでも統一したいという気持ちに囚われます。
ですが、統一することは果たして良い事なのかという気持ちも同時に持っているのです。
その相反する心は葛藤を生み出すわけなのですが、恐らくそのどちらかにきっぱりと分かれて納得してしまうのは良い事ではないのでしょうね。
しかし、葛藤に苛まれるのは自分自身であり、それは苦しいものです。
どちらかに統一してしまえればどんなに楽になるだろうと思うのですが、それも出来ずに日々を悶々として生き続けなければならない。
そんな時に私はとても孤独であると感じるのですよ。

そういえば、辻井文学の核は孤独感だそうですね。彼はこう言っています。

「なぜだか分からないけれど、どんなグループの中にいても孤立しているという感情から逃れられないのです」

私も同じ感情から逃れられないのです。これはもう仕方のないことなのでしょうね。ですから、私はその孤独感を受け入れ、それを踏まえた上での対人関係を築き上げなければならないのかなと思いました。
苛めの報復はその場で
違うよ。
苛めを苦にして自殺する事も、苛めを苦にして苛めていた相手を殺す事も、苛めを苦にして関係ない他人を殺す事もマシだなんていう事はないんだよ。

殺さず同じ目に。
それを出来る技量と頭脳がある者だけが報復出来るのだ。
殺すやり方は頭がいいやり方じゃない。

そして一番重要なのは苛められたら直ぐに報復しなければ意味はない。

犬の躾も悪さをしたその場で叱らなければならないだろう?
苛めも同じだよ。
その場で報復しなければ相手は忘れてしまうだろう。

苛めは決して無くならない。
無くならないんだよ。
それを忘れるな。
明日の事は明日考えよう
20年ぶりに喋る事が出来るようになった女性がいるそうですね。(関連記事「livedooor ファイナンシャル・ニュース(2)20年ぶりに言葉を回復した女性」

この女性は交通事故で寝たきりになり、言葉も喋れなくなったと言う事ですが、意識はあったようですね。
ところが、喋れるようになって家族と話をして、自分が38歳であることを告げられ驚いたそうです。まだ80年代で自分は22歳くらいであると思っていたらしいのです。(関連記事はこちら

それにしても、1月には言葉が喋れるようになっていたというのに、この女性はバレンタインのサプライズとして病院のスタッフにも両親に教えないでくれと口止めしたということですが、それは良くないサプライズだったと言わざるを得ません。
TVのキャスターも言っていましたが、その間に家族が亡くなってしまう場合だって考えられるわけですから。その時になって後悔してももう遅すぎるのです。
病院のスタッフももう少し考えて彼女を説得するなりすれば良かったのにと思いましたが、これもまあ部外者がそう思うだけで、スタッフの方も「すぐに知らせるべきだ」と説得していたかもしれませんね。

何にせよ、いい話でした。

それにしても、これからのリハビリも大変なことでしょうね。ただ、父親の一言に私も頷いていました。

「今はこの事だけを感謝し、明日の事は明日考えます」

私もそうありたいと思います。明日の事は明日。なるようになる──と。
信頼の失墜
今朝の新聞やTVでも見たのですが、痴漢を捕まえた親子がいたそうですね。(関連記事「女子高生と家族 痴漢”御用” 駅近くで被害帰宅し訴え 5.5キロ追跡車で先回りも 若松」

女性キャスターも言っていましたが、痴漢された女子高生はその事をよく親に話したものです。
普通なら怖くて、或いは恥ずかしくて話せないものだと思うのですが、最近の女子高生は強いのでしょうか。それともたまたまこの女子高生だけがそうだったのでしょうか。
それはそれで良い事なのでしょうし、卑劣な男が捕まって市民にとって安心できることでしょうね。

ただ、TVのドラマなどでは犯人の事は警察に任せるようにという場面をよく見るのですが。
あれは犯人が何を仕出かすか分からないからだったと思います。
しかも、この追跡劇では、女子高生とその母親が列車内に乗車して犯人を問い詰めたという事です。
その犯人が刃物など持っていたらどうするのでしょうか。
確かに、そういう事を心配していては駄目なのでしょうが、この事件では運が良かったというだけであり、もしかしたら殺傷事件にまで発展したかもしれないという危惧は出てくると思うのです。

この様な事は言いたくはないのですが、矢張り最近の警察は信用出来ないから、このような勇敢な一般市民が出てきてしまうのでしょう。
警察は市民を守るものであるという神話は崩れてしまったのでしょうか。
そうだとしたら、警察などと言うものは要らないのではないかと思ってしまいます。
市民に信頼してもらえる、そんな警察になって欲しいですね。
空気など読むな
どうなのだろう?
今までの私は空気を読む事は大切だと思っていた。
彼女が空気を読まずに書いた事で批判をされていたが、その時に感じた事を書く事は決して悪い事ではないと思うのだが。

たとえば被害者の家族の気持ちを分かっていないとか。
たとえば被害者がそのような事など考えるはずが無いとか。

それはそうだろう。
だが、私達は誰もその人の本当の気持ちなど分からないのだ。
分からないから、それぞれの立場で「こうだったのでは」と想像する。
それなのに「それは絶対に在り得ない」と断言は誰にも出来ないはずなのだ。

「あなたは間違っている」と批判するのなら、その批判した人もまた誰かから「あなたは間違っている」と言われても仕方ないのではないか?

他人を分かろうとするその姿勢を私は評価したい。
それを私は言いたかったのだ。
なのに、正義であると信じて疑わない人々は、少しも疑いもせずにその正義を振り翳すのだ。

空気を読めと言うのなら、私は空気など読むなと言いたい。
言いたい事も言えぬのなら、何の為に生きているのか分からなくなる。
如何すれば他人を不快にさせない言動が出来るか、私はそれを模索して彷徨っているよ。

少しでも尊敬する彼に近付きたいから。
右翼と左翼
参照:野良猫。 小林よしのり「戦争論」

私は此の方のような文章を書くのが夢なのですが、矢張り知識が足りなくて書けないのだろうなあと思います。
勿論、考える力や想像力は大切だとも思うのですが、考える為には材料となる知識が必要であると思うのですよ。

此の方が書かれている中で、勘ぐればあの人この人の事を言っているのだろうかという邪推してしまう箇所もあり、少々心に突き刺さる思いもしないではないのですが、此の方は「それは違うでしょう」と思いながらも、全面的には「その人」を否定していないと私は思っているのですが。此れもそうあって欲しいという願望なのでしょうね。

申し訳ないです。慎重になり過ぎるあまり、微妙に特定される事を避けた文章になっております。

ですが兎に角、この記事を読んで、私も色々と考えてみたいと思いました。
私は右翼だとか左翼というものがいったいどういうものであるかがよく分かりません。政治や歴史の分野などが不得意であるからというのもあるのですが、友人に「右翼とは左翼とはこういうものだ」と説明を受けたにも関わらず、実はどうもいまだによく理解ができないのです。
今の私の課題は、それらの意味を理解する事であるかなあと思っています。

矢張り精進の日々ですね。
恐れ
あなたは怖くて近寄りがたい存在だ。

弱い事の見せ方によって相手をどのようにも操れてしまう。
そう言い切るあなたは本当に怖いよ。

弱い事の見つけ方によっては容易くつけ入れると?
あなたの呟きは核心を付くからまるでナイフに刺されるような痛みを感じるよ。

あなたは怖い。
なのに、惹きつけられてしまう。
だから、見詰めることしか出来ない。
やっと距離を取る事に慣れた私なのだ。
あなたに関わると恐らく再び悲劇は始まるだろう。

いや、もう既に始まっていたな。
あなたに噛み付かれ、痛い想いをしたのだから。
もう二度とあなたにはちょっかいは出さないよ。

私は弱みは見せないと決めたからさ。
オーファンドラッグ
サリドマイドが希少疾病用医薬品(オーファンドラッグ)に指定されたそうです。→(関連記事群:Google 検索 オーファンドラッグ サリドマイド

かつて世間を騒がせていたサリドマイドではありますが、薬というものは全てが安全であるわけがなく、現在使用されている薬物はある病に効き目があったとしても、何らかの弊害を人体に及ぼすのだと言う事は誰でもが知っていることであると思います。
今でも妊婦には風邪薬は飲まないようにと言われているわけなのですが、これも私が知らないだけで飲んでも良い風邪薬もあるのでしょうね。ただ、恐らくあまり効き目はないのでしょうが。

薬害サリドマイドの被害者団体の言葉に「個人輸入のサリドマイドが何のルールもなく使われていた」とあり、そこで初めて知ったのですが、サリドマイドはかつては個人で輸入されていたのですね。昔はそのように「これはいいから」という事でどんどん取り入れられていたのでしょう。
薬物などは疾病に効くものなのでしょうが、そのほとんどが逆に毒にもなるという事は周知の事実です。
昔はそこまで考えが及んでいたのか分かりませんが、ですが、それを知っていても使い続けていた薬もあったわけです。

本当なら薬など使わなくても生きていきたいのです。少なくとも私は。
子供の頃は頭が痛かろうが熱が出ようが薬など飲んだという覚えが私にはありません。それはそういう薬の存在を知らなかったという事もありますが、親が健康体で飲ませるという事に考えが及ばなかったのでしょう。確認したわけではないのですが、私にはそう思えるのです。
ですが、大人になり、頭痛薬の効き目を知ってからは痛くなれば直ぐに薬を飲むようになってしまいました。
ただ、どんな薬を飲むにしても、気を付けて飲むように心がけております。
しかし、それも「こういう事もありますよ」という副作用が知らされていなければどうしようもありません。

もし、売れる売れないという理由で情報公開をされないのだとしたら、私達は何を信じて生きていけばいいのか分からなくなります。
サリドマイドが多発性骨髄腫の患者に光をもたらす事はサリドマイドの汚名挽回にはなると思いますが、願わくは二度と弊害が出ないよう本当に慎重に扱って欲しいですね。

それにしても、オーファンの意が「孤児」という事ですが、言い得てて妙ですね。→(治験ナビ-治験・医療用語集<オーファンドラッグ>参照)
不足
相手は自分に不足している物を持っている。
そして、自分は相手に不足している物を持っている。
それに気が付けば他人を羨ましいとは思わないだろう。
ぼんやりとした不安
そうか。
彼はそう言って自ら死を選んだのか。
君は心配するなと言うが、分からないぞ。
いつでも己自身の事が一番見えないものだ。
少なくとも私の場合は分からない。

彼のようになってしまわないとも限らない。

なりたくないと思う。
なるはずがないとも思う。
だが、私は私の心を制御しきれない時もあるのだ。

ぼんやりとした不安、か。

はっきりとした不安ではなく?

ぼんやりとした不安。
私は時たまその不安に包まれる事があるよ。
頼む。
誰でもいいから祈ってくれ。
私がその不安から逃れられるように。
いつか捕まってしまわぬように。
戦争は無くならない
更に同じ掲示板で、ぶんだばさんが「宗教と戦争」の事を書かれていましたが、それを読んでいて先月の新聞に書かれていたある方のエッセイの内容を思い出しました。

その方は「なぜ戦争はなくならないのだろう」というテーマで様々な事例を挙げていました。
戦争で利益を得る者に仕組まれているらしいとか、資本主義の体制そのものが戦争に至る必然性を孕んでいるとか、経済問題、領土問題、人種問題、宗教問題、民族問題などが複雑に絡み合っているとか、兎に角どうしても起こるべくして起きてしまうというような事が書かれてありました。

どんなに反対しても、気が付いた時にはどうにもならないのだ、と。

この方は「戦争のない平和な世界とは夢物語なのだろうか」と書かれていました。この世には絶望しかないからだ、と。
残念ながら私の考えも、人間が人間である限り戦争はなくならないと思っています。
確かに平和の意味は「戦争が無い」という事に間違いないのですが、その状態は長く続く事はないのです。
人の心が変わっていくように、必ず世界も変容していくのです。
平和である事が大事なのではなく、変わっていく事が大事なのではないかとそんな風にも思っています。

良い事も悪い事も続かないからこそ生きていく事ができる。

私にはそう思えて仕方ないのです。
人間とは留まる事が出来ない種族なのではないかと。

今、自分が生きているという事。そして、留まる事無く成長していく事。変わっていく事。この事実が大切な事ではないのかと、そんな想いが私の中で渦巻いています。

そして、この方が最後に書かれていた「現実が絶望しかないとしても、それでも戦争のない平和を目指して努力することが、生きている者の使命である」という言葉はその通りであると私も思います。

何もしないよりは努力することは無駄な事ではないということです。
平和が続けば世が乱れる時代も来る、それを如何にして再び平和に導くか努力する。そういう努力が、戦争は無くならないにしても速やかに平和へと移行する事にも繋がるのでしょう。
今世界で起きている戦争にしても長引かせているのは何であるか、頭の良いトップの方々にももっと考えて頂きたいと思います。

何の為に戦争をしているのですか?
よもや正義の為にと?
私は正義の為にと言う者を信じません。
正義とは何時の時代でも普遍ではないから。
最も個人的な感情で決められる物だと私は思っています。
偽善でもいい
同じく友人の掲示板で話を聞いていた中に、深く入り込んで考えるよりも気軽に動いてみれば見えるものがあると言われている方がいました。

私は頭は良くないのですが、やたらと考え込んでしまう性質なものですから、どうも動くよりもまず考えてからという所があるのです。そういう性質ですから、「まず動け」と言われてもなかなか動き出せないのですが、その方が例に上げていた事で思い出した事があります。

嫌がらせの為に湘南の海岸のゴミを全部拾ってしまったという話。(ご紹介されたページはこちら

直ぐには思い出せなかったのですが、記事を読んでいくにつれて当時何かで見た記憶が蘇ってきました。
これを紹介してくださった散歩道さんは「動機は不純だし、深いことは何にも考えていない人たちだけど、役には立っているよね。」と仰っていました。

そして思い出したのです。
ある方が「その行為が偽善であったとしても、結果的に誰かが救われればそれは偽善ではない」と言っていた事を。

偽善でもいい。
それが誰かの為になっていれば。
それが誰かの幸せになっていれば。

兎角、人は動機が不純であればそれを否定する動きがあります。
誰かを守るためについた嘘さえも非難される事もあります。
ですが、私は結果が全てであって、その過程を言及すべきではないという考えです。
勿論、全く関係はないのだという訳ではありません。
ただ、それ程重要視しなくてもいいではないかというだけの事です。

それにしても、そういう私の考えでいけば、TV局側が手柄を局側のもののように主張するのも一理はあるという事にもなります。
つまり、ゴミ拾いイベントをするという事がなければ、ちゃねらーも徹底的なゴミ拾いをしようなどとはならなかったと思いますしね。
そうなると、上手い具合に彼等は動かされたという事でしょう。
結果的には湘南の海岸は綺麗になったのですから。

それにしても、悩んでないでまず動け、ですか。
ですが、何も考えずに動いた為にとんでもない事を仕出かしてしまう者もいますので、全ての者には当てはまらないのでしょうね。ですから私から言えるとしたらこれです。

少しは考えて動きなさい──と。

勿論、これも全ての方に言える事ではありませんが。
汝、驕るなかれ
確かに女性の身体は出産の為になのか痛みには強いと聞く。
だが、全ての女性が耐える事が出来ると本気でそう思っているのか?

耐えられるなどと決め付けるな。

実際に経験をしてもう二度と出産はしたくないと言っている女性もいるのだぞ。
それさえもただの概念の植付けだと言うのか?

気の毒だと?
本当に相手を気遣っている者は「気の毒だ」と言う言葉は出てこないはずだ。
他人を「可哀相だ」とか「気の毒だ」と言う事がどれほど驕った態度であるかよく考えてみるがいい。
パニックに陥る
そうなんだよ。
彼女もそうだった。
痛みに過剰に反応する気質。
痛みで過呼吸症候群にもなる。
内視鏡でパニックに陥り精神安定剤を打たれる。
痛みを感じるくらいなら死をも選びたいと。

強い人間は幸いだ。
運の良い人間も幸いだ。

だが選ばれたなどと思うな。
それこそが驕りだよ。
何と人間とは愚かなものか。

人間は好きだが、時々非常に憎いと思う時もある。

  

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