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Photo: 「無敵の心身」
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何故、貴方は存在するのですか?
フランスに在住のある画家が言っていました。フランスでは労働組合の力がとても強いのだと。
いつでもどこかでストライキをやっているのを見かけるそうです。
特に交通機関のストライキは激しく、電車の中でアフリカ人が車掌を殴ったとか、女車掌が強姦されたという理由でフランス全土の鉄道が予告もなしにストライキを決行した事もあったという事です。

他には、とある住宅地でアフリカ人の子供がいつも騒ぐので管理人が注意をすると、人種差別をしているから訴えると言ってきたり脅迫をされたりする事もあるそうです。

それだけでなく、ユダヤ人の原理主義者たちも住んでおり、彼らはユダヤ人の祭日には何もしてはいけない、電気などには触れてはいけないという事で、扉のボタンも誰かに押してもらうのを待っていたりするのだそうです。

フランスはキリスト教の次にイスラム教の信者が多いという事も私は知りませんでした。
イスラム教では女性はスカーフを被らなくてはならないというのは有名ですが、画家の話によるとある学校では女生徒たちがイスラム・スカーフを被っていき、体操・水泳を一切しないという事が問題になったこともあったそうです。
イスラム女性は病院も夫に付き添われてゆき、診察も女医でなければならないそうです。

数年前には少女が焼き殺されたこともあったということですが、それもスカーフを身に付けていなかったという理由だったらしいのです。
イスラム・スカーフをつけていないという事は売春婦と同じであるという考えらしいのですね。

これらを知った私は、宗教とは一体何の為に存在するのだろうかと深く考え込んでしまいました。
確かに私は無神論者ではありますが、宗教を信じる事はその人の自由であると思い、それについては尊重したいと思います。
ですが、様々な宗教関係から起きる悲惨な出来事、残酷な行為を知るにつけ、私はどうしても宗教に対して嫌悪感を抱かずにはいられなくなります。

宗教とは人間を幸せにするものではないのですか?
では一体宗教は何故存在するのですか?
宗教を何も知らない私にとっては、宗教を語る資格はないのでしょうが、それでも問いたい。
神よ、本当に貴方が存在するというのなら、教えて欲しいものです。

貴方は何の為にそこに存在しているのですか、と。
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大切だよ
愚痴を言う事は大切だ。
それで一歩を進める場合だってある。
ただ気をつけたいのは、愚痴る相手を間違えない事。
それさえ肝に銘じておけば、愚痴を言う事は人間にとって大事な事だと思うよ。

相手を間違えるんじゃない。
それだけは忘れるな。
別人格にも責任がある
「別人格の犯行に刑事責任を負う」という見出しの記事を見ました。(参考:「YOMIURI ON-LINE 母殺害 長女に懲役12年 名古屋地裁 遺棄共犯は猶予判決」

名古屋市で起きたこの事件は娘が母親を殺したという事ですが、その共犯の女性は犯行時に別人格であったそうです。
彼女は解離性同一性障害、所謂多重人格と言われる病気であり、それを認定された上で刑事責任は負う事が出来ると指摘されました。

それは当然の事でしょうね。別人格であるからといって、それで殺人を犯して良いという理由にはならないし、殺人は殺人です。殺された女性の娘も、どうやら母親に虐待を受けた過去があり、それを理由に殺人に及んだという事ですが、その虐待も十年以上前の事だったそうです。それも矢張り殺人を犯して良い理由にはなりません。

ただ、私が気になったのは「虐待は十年以上前で被害者に落ち度はない」とした事ですね。
単純に考えれば、虐待をした母親に全く落ち度がないとは言えないと私は思うのです。たとえそれが随分昔の事であったとしても、子供にとっては一生心に残る傷ですから。
ですから、自業自得と言えなくもない。
しかし、虐待があったというのも、それについては真実なのかどうかは私には分かりません。そして、もしそれが本当の事だとしてもどの程度の虐待であったかでまた話は違ってくると思うのです。

虐待はとてもデリケートな事柄です。
死に至る恐れがある虐待は言語道断ですが、躾の上での体罰等までも虐待と一緒にされてしまうのも親にとっては酷な事ですからね。
ただ、巷で耳に入る虐待関連の話を聞いた私の印象では、子供は真正の虐待を受けた場合、それを虐待とは感じないものだと思いました。
ですから、虐待を理由に子供が親を殺すと言うことは、どうも違うかなと今回の事件では感じました。

真相は分かりません。
虐待が本当にあったのか。
母親はどういう人であったのか。
娘はどういう子供だったのか。
多重人格の女性はどういった人物だったのか。
ただ、嫌な事件だなという後味の悪さだけが私の心に残りました。

子が親を殺す。
親が子を殺す。
孫が祖父母を殺す。
祖父母が孫を殺す。

今だけではないのでしょう。昔もそういうことはあったのでしょう。
ですが、簡単に人は人を殺してしまう事に私は恐怖を感じます。
心に響いた言葉
「正常なつきあいがしたいのなら親のように広い心でなんて気持ちは捨てて、甘えを許さず対等な立場でつきあうべきでしょう。」

散歩道さんが書かれていたこの言葉は、私の心に響いた。(「複雑な韓国人の心情」参照)

今まで私は全てを許そうと思っていた。
許す事こそが平和への道だと。
だが散歩道さんのこの言葉が、すんなりと私の心に入り込んだよ。

かつて、私を情け容赦なく糾弾した者達がいた。
あの頃は理不尽さに憤りを感じたものだった。
だがしかし、今思うとそれは彼らなりの私に対する愛情だったのだな。

私は甘えていたよ。
甘えが人間関係を壊し続けた原因だったのだ。
それに気付いた今はきっと立ち続ける事が出来る。
そんな気がしている。
心をこの目で見てみたい
「X51.ORG 四肢切断を熱望する人々 - 身体完全同一性障害とは」を読んで、完全な身体とはどんな物なのかを考えてしまいました。

かつて、幼き頃、私も松葉杖をついて歩く事を望んだり、怪我をすればその怪我が大した事がなくても包帯で巻きたいと思ったものでした。
確かによく怪我をしたものですが、子供ならそれは当たり前の事で、あの頃は私だけでなくほとんどの子供達は皆何らかの怪我をしていたと思います。
恐らく、私だけでなく、多くの子供達が松葉杖をついたり包帯を巻いてみたりしてみたいと思っていたと思いますね。

ただ、それは子供らしい目立ちたがりから出た行動、或いは、そのような格好をしていれば他人から親切にしてもらえるという姑息さからくるものだったと思います。

ですが、一つだけ、私にはもう一つ欲求があったのです。

それは、たとえばひっきりなしに車が通り過ぎる道路を信号待ちしている時、何故か一歩を踏み出してしまいたいという欲求。
それは子供の頃から抱いていたものでした。
とは言え、死にたいとは思ってなどいなかったのですよ。
それなのに何故か猛スピードで通り過ぎようとしている車の前に飛び出したいという気持ちになる。それはそうですね、電車などの場合でもそういう気持ちになったりしますね。

私は今もってその時の自身の心理が分かりません。
確かに今はそういう気持ちになる事は少なくなったのですが、それはほとんどそのような道路に立つ事がなくなったからとも言えるのですがね。

それにしても何も悪い所が無いのに四肢を切断してしまうとは。
しかし、四肢のある状態に違和感を感じるのなら、切断してしまいたいという気持ちが出てくるのも単純に考えればあり得ない事でもないです。
性同一性障害でも、身体は男でそれ自体は正常であっても、心が女であれば男性の身体はその人にとって違和感があるわけで、その人にとっての正常である女性へと作り変えたいと思う事は至極当たり前の事ですからね。

人というのは身体で正常か異常かを決めるのではなく、心で正常か異常かを決めるという事ですか。
しかし、その心という物は、身体のように他人の目に分かる物ではないので、なかなかに理解はされないのですね。

心とは一体何でしょう。
私は心という物をこの目で見てみたいと思ってしまう事があります。
そんな事は絶対に無理だとしても。
自由を夢見て
やまめさんのブログで紹介されていたポリティカルコンパスというものを私もやってみました。(「ポリティカルコンパスについて

保守・リベラル度 0
(経済的な)右・左度 0.67
あなたの分類は保守右派です。
保守は伝統や公共の福祉を重視し、リベラルは個人の自由を重視する価値観です。
右派は小さな政府、左派は大きな政府を志向する価値観です。
いわゆる右翼は保守に、左翼はリベラルに対応しますので、ご注意ください。

矢張り私は自由には生きる事の出来ない人間なのですね。
己の責任で生きていく、そんな人間になりたいです。
なかなか困難ではあるのですが、頑張りましょう。
自由とは?
やまめさんがご自分の記事で書かれていた人権擁護法案の事ですが、新聞に書かれていたある記事を読んで、少々私も書いてみたいと思い書きます。
もしかしたら、少しずれた事を書いてしまうかもしれませんが、何卒ご了承の程願います。

まず、人権擁護法案について書かれた記事のリンクを提示します。やまめさんの記事からの転載です。

人権擁護法(案)

人権擁護法案について(デスノート風)FLASH版

上記の法案はなかなかに難しいのですが、下記のフラッシュ版はとても分かりやすくていいと思いました。

それから、私がよくお邪魔をする所で聞いた事なのですが、何でも「人権擁護委員法」というのが存在するというのです。それは私も知りませんでした。(参考ブログ:「世の中驚くことばかり!:人権擁護委員法ってご存知ですか?」

既存の法律があるのに何故さらに強化する必要があるのでしょうか?
私は納得できません。
矢張り、これはただの言論統制と言われても仕方ないのでは?

それを踏まえて、新聞記事で見つけてきた事について書きたいと思います。

それは自由を広げたいと思っている米国の自由とは、本当に自由なのかという事なのですが。
米国人の多くは言論の自由が守られる事に賛成しつつも、自分とは違う考えが自分にとって不快に感じたら排除する傾向があるらしいのです。
そして、米国の自由とは、政府に逆らわない事が前提という様な事が記事には書かれてありました。
米国内の言論自由がただの幻想でしかないのだなと、その記事を読んで私は思いました。
私は「政府に逆らわない」というのを読み、今話題になっている日本の人権保護法案を思い浮かべましたよ。

私の友人は、人生最後に自分に尋ねる言葉の一つは「あなたは自由でしたか?」だと言っていました。

何が一体自由であるか。
それは人それぞれでしょう。
自由に己を表現する事も、そして、何者にも束縛されずに生きていく事も。
己に自由だったかと問うと言った友人はこんな事を書いていました。

「こんなことが綺麗な一日だと思った。心が泣いていた。波風の少ない緩いぬくもりより、物質的豊かな生活より、大したことない日常が枯れた心に水を与え、それを一番欲している自分がいることを危うく忘れかける所だった。」

その友人に他の友人が「最低限の自由は言葉かな」と言っていたように、私も「言葉」だけは自由であって欲しいと思います。
たとえ、誰かを傷付けるしかない言葉だったとしても、言葉は一切の制約なしに自由であって欲しいと。
今、この時、この時代に世界に放たれる言葉は、それがどんな物であったとしてもこの時代が存在した証であり、言葉の良し悪しは現在の我々ではなく、後の時代の人々が判断する事なのだと私は思います。

私たちは自由でなければなりません。
それは米国の幻想の自由でもなく、そして我が政府の提示する間違った法律に守られる自由でもなく、私たち自身が選ぶ自由でなければなりません。

そして、私は何時までも自由でありたいと思います。
頑張れという言葉
彼女はとても不安を抱いている。
そのことを彼に話せないでいる。
辛いね。
話したらいいと思うが、話してみたところでどうにもならないことは彼女自身がよくわかっていることだ。
だから彼女は話さない。
大好きな彼にも話せない。
友達にも話せない。
そして、夜中一人で泣いているのだろうね。
辛いね。
私が抱き締めてあげたいが、遠くにいてそれも出来ない。
こんな夜は自分の無力さを感じてしまう。
どんなに慰めの言葉をかけても、それはただの言葉でしかないからだ。
彼女自身がどうにかしないと、解決しない問題だからだ。
頑張れということは簡単。
だが頑張れと言ってしまってはいけないことも真実だ。
だが私は言うしかない。

頑張れ、と。
カミカゼアタック
過日、米国で発生した同時多発テロで米国では「カミカゼアタック」と表現していたそうですね。
今更な話題なのですが、「ザ・ウィンズ・オブ・ゴッド~カミカゼ~」の監督・主演である今井雅之氏が「特攻隊は死にたい人の集団ではなく、父母の防波堤になろうとした人たち」と言っていたと聞きました。
確かにテロ行為と神風を同一視するのは違うとは思いますが、テロリストが「死にたい集団」というのも少し違うと思うのですが。
何もテロ行為を肯定するつもりはないし、彼らの行為は私にとっては間違っているという思いしかありませんが「死にたいからテロ行為をしている」と言うことは、米国側がテロ行為=カミカゼアタックであると言っているのと同じなのではないでしょうか。

特攻隊が今井氏の言うように「守りたい人の為に」犠牲となったのなら、テロリストもまた己の信念の為に犠牲となったわけなのでしょう?
とはいえ、私はテロリストの実態を把握しているわけではないので、テロリスト側からそれは違うと言われるかもしれませんが。
ですが、決して「死にたいからテロ行為をしている」という訳ではないと思うのですがね。

ちなみに、この話題を求めて検索していたら、興味深い板を見つけました。(参照:)「GungriffonIII CripBoard」どうやらゲーム関連の板だったらしいのですが、私はゲームに詳しくないので映画の事が書かれていないかと書き込みをざっと読んでみました。どうやら「ザ・ウィンズ・オブ・ゴッド~カミカゼ~」は12年ほど前は右翼であると叩かれていたそうですね。
戦争の、特に兵士側に立って描かれる作品というものは、どうしてもそういう目で見られてしまうということでしょうか。
私はこの作品は見ていないので詳しい感想は控えますが、印象としては戦争を賛美しているようには思えなかったのですがね。
立ち続けたい
人は注目されたいという願望が誰にでもあると思うのです。この私も嫌悪しつつもその気持ちを持っていたりします。

ぶんだばさんが「徒然なるままに時間のあるときにPCに向かひて:トレンドランキングを見る~ブログのスタンス」で言われる通り、巷では「人権擁護法案関連」「竹島問題関連」がホットな話題であります。なので、それを取り上げるという事はアクセス向上に躍起になっている人にはいい話題でしょう。
私は、アクセスを上げる為にそれらの話題を取り上げる事を否定しません。
そこで「なるほど」と他人を唸らせる物を書けば良い事ですし、そこから生まれる新しい交流も捨てがたいと私自身も思いますから。
それらの話題に興味を持ち、それについて自分なりの意見を書く事が出来るのならどんどん書けばいいのです。

しかし、私はその二つの話題について、今は書くつもりはありません。

興味が無いわけではないのですが、一つは上手く言葉に出来ないという事で、一つは背景がよく分からないという事で書けません。
もっと深く考え込んで書かないと、不適切な事を書いてしまいそうだからです。

あともう一つ理由があります。

私は他人が群がる話題に手を出したくないという気持ちが働くようなのです。
沢山の方が注目してはいないであろうという話題を書きたいのです。勿論、そのマイナーな話題も私が興味を持てない物は書きませんが。

それにしても、ぶんだばさんが挙げていらした「バスに乗り遅れるな」という言葉は知りませんでした。ですが、それを見た時にオイルショックの「トイレットペーパーの買占め」を思い出してしまいましたよ。

その流れに逆らうのではなく、流されていく人々をじっと見詰め、その場に立ち続けたいと私なら思います。なかなか難しいのですが、そうありたいと思い、私は此処で静かに立っていたいと、そう思いますね。

  

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