Photo: 「無敵の心身」
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何故、貴方は存在するのですか?
フランスに在住のある画家が言っていました。フランスでは労働組合の力がとても強いのだと。
いつでもどこかでストライキをやっているのを見かけるそうです。
特に交通機関のストライキは激しく、電車の中でアフリカ人が車掌を殴ったとか、女車掌が強姦されたという理由でフランス全土の鉄道が予告もなしにストライキを決行した事もあったという事です。

他には、とある住宅地でアフリカ人の子供がいつも騒ぐので管理人が注意をすると、人種差別をしているから訴えると言ってきたり脅迫をされたりする事もあるそうです。

それだけでなく、ユダヤ人の原理主義者たちも住んでおり、彼らはユダヤ人の祭日には何もしてはいけない、電気などには触れてはいけないという事で、扉のボタンも誰かに押してもらうのを待っていたりするのだそうです。

フランスはキリスト教の次にイスラム教の信者が多いという事も私は知りませんでした。
イスラム教では女性はスカーフを被らなくてはならないというのは有名ですが、画家の話によるとある学校では女生徒たちがイスラム・スカーフを被っていき、体操・水泳を一切しないという事が問題になったこともあったそうです。
イスラム女性は病院も夫に付き添われてゆき、診察も女医でなければならないそうです。

数年前には少女が焼き殺されたこともあったということですが、それもスカーフを身に付けていなかったという理由だったらしいのです。
イスラム・スカーフをつけていないという事は売春婦と同じであるという考えらしいのですね。

これらを知った私は、宗教とは一体何の為に存在するのだろうかと深く考え込んでしまいました。
確かに私は無神論者ではありますが、宗教を信じる事はその人の自由であると思い、それについては尊重したいと思います。
ですが、様々な宗教関係から起きる悲惨な出来事、残酷な行為を知るにつけ、私はどうしても宗教に対して嫌悪感を抱かずにはいられなくなります。

宗教とは人間を幸せにするものではないのですか?
では一体宗教は何故存在するのですか?
宗教を何も知らない私にとっては、宗教を語る資格はないのでしょうが、それでも問いたい。
神よ、本当に貴方が存在するというのなら、教えて欲しいものです。

貴方は何の為にそこに存在しているのですか、と。
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大切だよ
愚痴を言う事は大切だ。
それで一歩を進める場合だってある。
ただ気をつけたいのは、愚痴る相手を間違えない事。
それさえ肝に銘じておけば、愚痴を言う事は人間にとって大事な事だと思うよ。

相手を間違えるんじゃない。
それだけは忘れるな。
別人格にも責任がある
「別人格の犯行に刑事責任を負う」という見出しの記事を見ました。(参考:「YOMIURI ON-LINE 母殺害 長女に懲役12年 名古屋地裁 遺棄共犯は猶予判決」

名古屋市で起きたこの事件は娘が母親を殺したという事ですが、その共犯の女性は犯行時に別人格であったそうです。
彼女は解離性同一性障害、所謂多重人格と言われる病気であり、それを認定された上で刑事責任は負う事が出来ると指摘されました。

それは当然の事でしょうね。別人格であるからといって、それで殺人を犯して良いという理由にはならないし、殺人は殺人です。殺された女性の娘も、どうやら母親に虐待を受けた過去があり、それを理由に殺人に及んだという事ですが、その虐待も十年以上前の事だったそうです。それも矢張り殺人を犯して良い理由にはなりません。

ただ、私が気になったのは「虐待は十年以上前で被害者に落ち度はない」とした事ですね。
単純に考えれば、虐待をした母親に全く落ち度がないとは言えないと私は思うのです。たとえそれが随分昔の事であったとしても、子供にとっては一生心に残る傷ですから。
ですから、自業自得と言えなくもない。
しかし、虐待があったというのも、それについては真実なのかどうかは私には分かりません。そして、もしそれが本当の事だとしてもどの程度の虐待であったかでまた話は違ってくると思うのです。

虐待はとてもデリケートな事柄です。
死に至る恐れがある虐待は言語道断ですが、躾の上での体罰等までも虐待と一緒にされてしまうのも親にとっては酷な事ですからね。
ただ、巷で耳に入る虐待関連の話を聞いた私の印象では、子供は真正の虐待を受けた場合、それを虐待とは感じないものだと思いました。
ですから、虐待を理由に子供が親を殺すと言うことは、どうも違うかなと今回の事件では感じました。

真相は分かりません。
虐待が本当にあったのか。
母親はどういう人であったのか。
娘はどういう子供だったのか。
多重人格の女性はどういった人物だったのか。
ただ、嫌な事件だなという後味の悪さだけが私の心に残りました。

子が親を殺す。
親が子を殺す。
孫が祖父母を殺す。
祖父母が孫を殺す。

今だけではないのでしょう。昔もそういうことはあったのでしょう。
ですが、簡単に人は人を殺してしまう事に私は恐怖を感じます。
心に響いた言葉
「正常なつきあいがしたいのなら親のように広い心でなんて気持ちは捨てて、甘えを許さず対等な立場でつきあうべきでしょう。」

散歩道さんが書かれていたこの言葉は、私の心に響いた。(「複雑な韓国人の心情」参照)

今まで私は全てを許そうと思っていた。
許す事こそが平和への道だと。
だが散歩道さんのこの言葉が、すんなりと私の心に入り込んだよ。

かつて、私を情け容赦なく糾弾した者達がいた。
あの頃は理不尽さに憤りを感じたものだった。
だがしかし、今思うとそれは彼らなりの私に対する愛情だったのだな。

私は甘えていたよ。
甘えが人間関係を壊し続けた原因だったのだ。
それに気付いた今はきっと立ち続ける事が出来る。
そんな気がしている。
心をこの目で見てみたい
「X51.ORG 四肢切断を熱望する人々 - 身体完全同一性障害とは」を読んで、完全な身体とはどんな物なのかを考えてしまいました。

かつて、幼き頃、私も松葉杖をついて歩く事を望んだり、怪我をすればその怪我が大した事がなくても包帯で巻きたいと思ったものでした。
確かによく怪我をしたものですが、子供ならそれは当たり前の事で、あの頃は私だけでなくほとんどの子供達は皆何らかの怪我をしていたと思います。
恐らく、私だけでなく、多くの子供達が松葉杖をついたり包帯を巻いてみたりしてみたいと思っていたと思いますね。

ただ、それは子供らしい目立ちたがりから出た行動、或いは、そのような格好をしていれば他人から親切にしてもらえるという姑息さからくるものだったと思います。

ですが、一つだけ、私にはもう一つ欲求があったのです。

それは、たとえばひっきりなしに車が通り過ぎる道路を信号待ちしている時、何故か一歩を踏み出してしまいたいという欲求。
それは子供の頃から抱いていたものでした。
とは言え、死にたいとは思ってなどいなかったのですよ。
それなのに何故か猛スピードで通り過ぎようとしている車の前に飛び出したいという気持ちになる。それはそうですね、電車などの場合でもそういう気持ちになったりしますね。

私は今もってその時の自身の心理が分かりません。
確かに今はそういう気持ちになる事は少なくなったのですが、それはほとんどそのような道路に立つ事がなくなったからとも言えるのですがね。

それにしても何も悪い所が無いのに四肢を切断してしまうとは。
しかし、四肢のある状態に違和感を感じるのなら、切断してしまいたいという気持ちが出てくるのも単純に考えればあり得ない事でもないです。
性同一性障害でも、身体は男でそれ自体は正常であっても、心が女であれば男性の身体はその人にとって違和感があるわけで、その人にとっての正常である女性へと作り変えたいと思う事は至極当たり前の事ですからね。

人というのは身体で正常か異常かを決めるのではなく、心で正常か異常かを決めるという事ですか。
しかし、その心という物は、身体のように他人の目に分かる物ではないので、なかなかに理解はされないのですね。

心とは一体何でしょう。
私は心という物をこの目で見てみたいと思ってしまう事があります。
そんな事は絶対に無理だとしても。
自由を夢見て
やまめさんのブログで紹介されていたポリティカルコンパスというものを私もやってみました。(「ポリティカルコンパスについて

保守・リベラル度 0
(経済的な)右・左度 0.67
あなたの分類は保守右派です。
保守は伝統や公共の福祉を重視し、リベラルは個人の自由を重視する価値観です。
右派は小さな政府、左派は大きな政府を志向する価値観です。
いわゆる右翼は保守に、左翼はリベラルに対応しますので、ご注意ください。

矢張り私は自由には生きる事の出来ない人間なのですね。
己の責任で生きていく、そんな人間になりたいです。
なかなか困難ではあるのですが、頑張りましょう。
自由とは?
やまめさんがご自分の記事で書かれていた人権擁護法案の事ですが、新聞に書かれていたある記事を読んで、少々私も書いてみたいと思い書きます。
もしかしたら、少しずれた事を書いてしまうかもしれませんが、何卒ご了承の程願います。

まず、人権擁護法案について書かれた記事のリンクを提示します。やまめさんの記事からの転載です。

人権擁護法(案)

人権擁護法案について(デスノート風)FLASH版

上記の法案はなかなかに難しいのですが、下記のフラッシュ版はとても分かりやすくていいと思いました。

それから、私がよくお邪魔をする所で聞いた事なのですが、何でも「人権擁護委員法」というのが存在するというのです。それは私も知りませんでした。(参考ブログ:「世の中驚くことばかり!:人権擁護委員法ってご存知ですか?」

既存の法律があるのに何故さらに強化する必要があるのでしょうか?
私は納得できません。
矢張り、これはただの言論統制と言われても仕方ないのでは?

それを踏まえて、新聞記事で見つけてきた事について書きたいと思います。

それは自由を広げたいと思っている米国の自由とは、本当に自由なのかという事なのですが。
米国人の多くは言論の自由が守られる事に賛成しつつも、自分とは違う考えが自分にとって不快に感じたら排除する傾向があるらしいのです。
そして、米国の自由とは、政府に逆らわない事が前提という様な事が記事には書かれてありました。
米国内の言論自由がただの幻想でしかないのだなと、その記事を読んで私は思いました。
私は「政府に逆らわない」というのを読み、今話題になっている日本の人権保護法案を思い浮かべましたよ。

私の友人は、人生最後に自分に尋ねる言葉の一つは「あなたは自由でしたか?」だと言っていました。

何が一体自由であるか。
それは人それぞれでしょう。
自由に己を表現する事も、そして、何者にも束縛されずに生きていく事も。
己に自由だったかと問うと言った友人はこんな事を書いていました。

「こんなことが綺麗な一日だと思った。心が泣いていた。波風の少ない緩いぬくもりより、物質的豊かな生活より、大したことない日常が枯れた心に水を与え、それを一番欲している自分がいることを危うく忘れかける所だった。」

その友人に他の友人が「最低限の自由は言葉かな」と言っていたように、私も「言葉」だけは自由であって欲しいと思います。
たとえ、誰かを傷付けるしかない言葉だったとしても、言葉は一切の制約なしに自由であって欲しいと。
今、この時、この時代に世界に放たれる言葉は、それがどんな物であったとしてもこの時代が存在した証であり、言葉の良し悪しは現在の我々ではなく、後の時代の人々が判断する事なのだと私は思います。

私たちは自由でなければなりません。
それは米国の幻想の自由でもなく、そして我が政府の提示する間違った法律に守られる自由でもなく、私たち自身が選ぶ自由でなければなりません。

そして、私は何時までも自由でありたいと思います。
頑張れという言葉
彼女はとても不安を抱いている。
そのことを彼に話せないでいる。
辛いね。
話したらいいと思うが、話してみたところでどうにもならないことは彼女自身がよくわかっていることだ。
だから彼女は話さない。
大好きな彼にも話せない。
友達にも話せない。
そして、夜中一人で泣いているのだろうね。
辛いね。
私が抱き締めてあげたいが、遠くにいてそれも出来ない。
こんな夜は自分の無力さを感じてしまう。
どんなに慰めの言葉をかけても、それはただの言葉でしかないからだ。
彼女自身がどうにかしないと、解決しない問題だからだ。
頑張れということは簡単。
だが頑張れと言ってしまってはいけないことも真実だ。
だが私は言うしかない。

頑張れ、と。
カミカゼアタック
過日、米国で発生した同時多発テロで米国では「カミカゼアタック」と表現していたそうですね。
今更な話題なのですが、「ザ・ウィンズ・オブ・ゴッド~カミカゼ~」の監督・主演である今井雅之氏が「特攻隊は死にたい人の集団ではなく、父母の防波堤になろうとした人たち」と言っていたと聞きました。
確かにテロ行為と神風を同一視するのは違うとは思いますが、テロリストが「死にたい集団」というのも少し違うと思うのですが。
何もテロ行為を肯定するつもりはないし、彼らの行為は私にとっては間違っているという思いしかありませんが「死にたいからテロ行為をしている」と言うことは、米国側がテロ行為=カミカゼアタックであると言っているのと同じなのではないでしょうか。

特攻隊が今井氏の言うように「守りたい人の為に」犠牲となったのなら、テロリストもまた己の信念の為に犠牲となったわけなのでしょう?
とはいえ、私はテロリストの実態を把握しているわけではないので、テロリスト側からそれは違うと言われるかもしれませんが。
ですが、決して「死にたいからテロ行為をしている」という訳ではないと思うのですがね。

ちなみに、この話題を求めて検索していたら、興味深い板を見つけました。(参照:)「GungriffonIII CripBoard」どうやらゲーム関連の板だったらしいのですが、私はゲームに詳しくないので映画の事が書かれていないかと書き込みをざっと読んでみました。どうやら「ザ・ウィンズ・オブ・ゴッド~カミカゼ~」は12年ほど前は右翼であると叩かれていたそうですね。
戦争の、特に兵士側に立って描かれる作品というものは、どうしてもそういう目で見られてしまうということでしょうか。
私はこの作品は見ていないので詳しい感想は控えますが、印象としては戦争を賛美しているようには思えなかったのですがね。
立ち続けたい
人は注目されたいという願望が誰にでもあると思うのです。この私も嫌悪しつつもその気持ちを持っていたりします。

ぶんだばさんが「徒然なるままに時間のあるときにPCに向かひて:トレンドランキングを見る~ブログのスタンス」で言われる通り、巷では「人権擁護法案関連」「竹島問題関連」がホットな話題であります。なので、それを取り上げるという事はアクセス向上に躍起になっている人にはいい話題でしょう。
私は、アクセスを上げる為にそれらの話題を取り上げる事を否定しません。
そこで「なるほど」と他人を唸らせる物を書けば良い事ですし、そこから生まれる新しい交流も捨てがたいと私自身も思いますから。
それらの話題に興味を持ち、それについて自分なりの意見を書く事が出来るのならどんどん書けばいいのです。

しかし、私はその二つの話題について、今は書くつもりはありません。

興味が無いわけではないのですが、一つは上手く言葉に出来ないという事で、一つは背景がよく分からないという事で書けません。
もっと深く考え込んで書かないと、不適切な事を書いてしまいそうだからです。

あともう一つ理由があります。

私は他人が群がる話題に手を出したくないという気持ちが働くようなのです。
沢山の方が注目してはいないであろうという話題を書きたいのです。勿論、そのマイナーな話題も私が興味を持てない物は書きませんが。

それにしても、ぶんだばさんが挙げていらした「バスに乗り遅れるな」という言葉は知りませんでした。ですが、それを見た時にオイルショックの「トイレットペーパーの買占め」を思い出してしまいましたよ。

その流れに逆らうのではなく、流されていく人々をじっと見詰め、その場に立ち続けたいと私なら思います。なかなか難しいのですが、そうありたいと思い、私は此処で静かに立っていたいと、そう思いますね。
おめでとう
ぶんだばさん、誕生日おめでとう。
そちらのブログのどこに書きこんでいいのか分からないので此処に書いておきます。

間に合ったかな?(笑
理想に向かって走る
目指してもいいと思う。
自分の理想に向かってね。
ただ、それに到達した時、果たして幸せかどうかは誰にもわからない。

だが目指さなきゃ何も始まらない。
目指すことに意義がある。

まるで、運動会の宣誓みたいだ。
それでもなかなかいいと思うけどね。
医療関係の虚偽の情報にメスを入れる
今朝の新聞を見ていたら、医療機関がインターネットのホームページに載せる内容について初のガイドラインを厚生労働省が作成したと書かれてありました。(関連記事:「厚労省が医療機関のHPに虚偽規制を検討 - nikkansports.com 社会ニュース」

何でもネット上の医療情報は医療法上の広告とは扱われないという事で今までは野放し状態だったそうですね。
私も過去一度、気になる症状があったためにネット上に情報を求めた事がありました。
様々なサイトを覗きましたが、あの中には患者を惑わす虚偽の情報を載せていたサイトもあったのかもしれません。
ただ、恐らくその虚偽の情報というものも「この病院、この医師にかかれば絶対に治る」とか、そういったものなのかなあという印象は持ちました。

新聞には「治療成績」や「患者満足度」を紹介する時は根拠のデータも示す事とは書かれてありました。
ですが、これも必ずしも真実のデータを載せているかどうか分からないと思います。
きちんと全てのサイトを検証していればいいのですが、本当に全てをチェック出来るのでしょうか。
勿論、野放しだったのが、ガイドラインが作成されたという事で進歩したとも言えますがね。

そう言えば、ここ最近「男性乳がん」の検索ワードが著しく伸びております。私が調べたサイトなどでは、それほど患者が多いというわけではないとは書かれてありましたが、それでも関心を寄せている人々が多いのですね。
詰まらない物ですが
本当に大した事を書いていないのだから、大した事は書いていませんと書くのは悪い事じゃないと思うのだが。

それさえも言い訳だと言うのか?

過度の謙遜は不快を感じさせるという事は確かにそうだ。
「大した事は書いてませんが、良かったら見てやって下さい」という文は過度の謙遜ではないだろう?
私には適度な謙遜に見えるが。

良いテキストか詰まらないテキストか、そんな事は私には如何でもいい。
何故か惹かれて読んでしまう、それだけが全てだ。
No one knows.
生きる事は祝福だと言う君。
他人から見てどんなに不幸に見えても笑えない事はないと言う君。
人との関わりが救いになる事もあると言う君。

君のその言葉が私の救いになっている。

だが、多くの人に見て欲しいと言うその映画は、私は怖くて見れないんだ。
見てしまったら引き摺られそうで。
とても怖い。

君のその短い文だけで十分伝わったよ。
私はそれだけでいい。
鳩の雌と鴨の雄
鳩の雌は他の鳩を見ていないと産卵しないそうです。しかも、それは鏡に映った自分の姿でもいいらしいのです。

これは私が所持しているアイザック・アシモフの「アシモフの雑学コレクション」という本に掲載されていました。
ぶんだばさんの所で好きな作家の話が出た時に、私はアシモフが好きだと言ったのですが、それでも全ての彼の作品を読んだわけではありません。
そこで、そう言えば雑学の本があったという事を思い出し本棚から探してきたのがこの本です。実は買ったまままだ読んでいませんでした。
アシモフは科学者でもありSF作家でもあるのですが、私は彼の「銀河帝国の興亡」がとても好きでした。

ところで話を戻しますが、鳩の雌が鏡に映った自分の姿を見ても産卵するという事にとても興味を持ちました。何故そのような事が起きるのでしょうか。
鳥と言えば「X51.ORG 「同性愛屍姦趣味のカモ」の研究続く オランダ」でショッキングな記事を読みました。
本当に無理やり交配をするものなのでしょうか。何だか信じられませんが、この世には知らない事も沢山あると思いますので、もしかしたら動物にも同性愛というものはあるのかもしれません。
コメントでは様々な見解が出ていて、とても興味深く読ませていただきました。

アシモフが生きていたら、同性愛のカモをどのように解説したでしょうね。
忘れていく感覚
赤川次郎

彼の本はほとんど読んでいない。
昔、友人から借りたホームズシリーズを何冊か読んだくらいだったな。

彼は社会に出て初めて恋愛を経験した。
恋愛は切ない。
それまでに読んだ本に書かれてあった通りだった。
それに感動したと彼は言っている。

「時間がたてば傷は癒される」
「この人がいなくなってもいつかまた誰かを好きになる」

そういうことが読書でわかっていれば?
主人公に重ねて読み、その心の痛みをわかれば自分を客観視できると?

本当にそうだろうか?

私もそんな感じで読書をしてきたと思う。
だが客観視できない場合が多いような気がする。
これでは他人に意見なんて言えないよな。(苦笑
醜態は見せない
君が言うように確かに「マイナス」を伝えるのは難しい。
此処まで来た私でも、未だに上手くマイナスを伝える事が出来ないからだ。
あれから一度「それは止めてくれ」と勇気を出して言った事がある。
だが、幾ら説明しても相手は分かってくれなかった。
私の説明が悪かったのか、或いは相手の理解力がなかったのか、それは私にも分からない。
しかし、あれで分かった事は、私はそれだけの人々としか付き合いがなかったのだなと言う事。虚しさだけが残ったよ。

不快に感じた「行為」「言動」のみに言及することが大事だと言う君。
そして、具体的に説明すると言う君。
そうだ。その通りだ。君の言う通りだ。
それとね、もう一つあるんだよ、大切な事が。
だが、これは誰にもどうにも出来ない事なんだが。

運とタイミング。

私は身を持って体験しているからね。(苦笑
同じトラブルが起こってもあの人とは上手く行かなかったのに、もう一人とは上手く行ったのは、それはもう運が良かったというだけだ。
そう言ってくれたその人との間でも何度も私は危うくなりかけたんだよ。
だがいい距離で今もずっと関係は続いている。

不満はその都度潰してしまうのがいいというのは、私も分かっている。
それをしないばかりにそれが溜まってしまい何時しか溢れてしまうという事もあるだろう。
だが、私に限っては恐らく不満は溜まらないだろう。
私はその不満を紛らわす術を知っているから。

だから此れからもマイナスは伝えないと思うよ。
もう故意に溢れさせる事はない。
他人に慰められるような醜態は見せない。
理解出来ないから
私を理解してくれる誰かがいるように相手にも同じ理解者がいる、か。

言われなくても分かっているさ、そんな事はね。
たとえ君が言うようにその二人の理解者が同じ人物であろうとも、考慮して接しなければいけないとは君に言われたくない。

素直な気持ちを理解者に話せなければ、では一体何を話せば良いのだ?

私の話す事で理解者が辛いと思うなら、相手の話を聞いてもその人は辛く思う事だろう。
ならば私を見切ればいいのだ。
私を切り捨てればいいのだ。
それが出来ぬと言うのなら、覚悟をしてついてこい。

私がその様な立場になったら、私は切り捨てる。
今までそうやって生きてきた。
そうしなければ生きていけなかったからだ。

だから話して欲しい。
私を傷付けても構わないから。
素直に感じたままの君自身の言葉を。
それなのに君の言葉は難解過ぎる。
頭の悪い私には理解できない。

理解できないから見詰めてしまう。
君を切り捨てるべきか如何かが分からない。
そうだね。
私もそう思う。
相手の持ち物が欲しい。
新しい物ではなく。
相手の温もりが感じられる物が欲しいと思う。
全てを見せて欲しい
「ARTIFACT ―人工事実― うざがられる自分語り」で「自分語りは嫌われる」という事について筆者が書かれていた事を読みました。

筆者は「自分語りが嫌われるわけではない」と書かれていました。

確かにそうですね。
私も多くの日記を読ませてもらっていますが、此処ではリンクしていない日記の中には自分語りの日記も多く存在しています。ですが、私はそういう日記をうざいと感じたことはありません。むしろ、もっと自分語りをしてくれと思っていますから。

それは何故か。

勿論、その人物に興味があるからです。
興味の持てない方のは読みませんから。
ですが、興味のない方の自分語り日記をたとえ読んだとしても、私はうざいとは思いませんがね。

さて、この筆者は「個人の管理しているスペースというのは、公共の場ではない」と書かれています。私もそう思います。
ですから、その公共の場ではない場所では、矢張り管理者の自由な表現は許されて然るべきだと思いますね。
それが気に入らないのであれば自由に意見をすれば良いし、また、意見をされたからといって、いたずらに卑屈になり、書きたい事も書かないというのも駄目でしょう。
とはいえ、書かない自由もあると思いますので、覚悟の無い者は書かなければ良いのです。

知り合いが言っていましたが、ウェブ上に存在するサイトはガラスで出来た家なのだと。
そこで何をしているかは通りがかる者には丸見えです。
何を見せて、何を隠すか、それは本人次第。
何もかも見せる事の出来る人間は、本当はとても強い人間か、或いはとても弱い人間なのかもしれないと思ってしまいました。
そんなことはないと思う
子供が一番?
確かにそうだ。
だから放っている自分が許せないんだね?
だがそれはまだマシなんだよ。
気付いているから。

人は気付いている人間を非難する。
しかし私はそうではないと思う。
気付いていない者のほうが罪深い。

あなたはそれでいい。
煽り、煽られ
紫月さんが3月8日の「毒な雑記帳」で言論の自由を一度失ってみるのもいいと書かれていました。

私もそう思います。
それは私も一度自由を奪われた事があったのでそう思ったのですがね。
相手に対して「そんな事を言うな」とか「そんなこと書くべきじゃない」とか言う事に対しても、昔は激怒した私ですが、今ではそれ程怒りをぶつけなくてもいいのではないかと思うようになりました。
私に言論の自由があると言うのなら、私に敵対する人々にも言論の自由はあるわけです。
言うのは自由。
聞くのも自由。
言論は弾圧されても本人の気持ち次第でどうとでもなる。

言いたければ言えばいいのです。
言論は規制されても、結局はゲリラ的にされるものであり、地下は何百階と存在するものですから、規制されて全く言えないと言うものでもないわけです。

紫月さんの言われているように、所謂、瞬間湯沸し器はネットの世界にも沢山います。
私の親しい人もそうでしたが、物事をきちんと判断する為にはあまり賢いとは言えないですよね。勿論、そういう人にもそれなりの存在意義はあるのですが。

今ではかなり自由を取り戻したと思っています。
ですが、矢張り此処まで来るのには大変な思いをしてきました。
それでも、煽り、煽られるのも良い経験なのかもしれませんね。
英雄の物語
ゲド戦記というタイトルはそこここで聞いたことはある。
だが読んだことはない。

そのあらすじで英雄のことが書かれていた。

「自分自身であろうと努める人びと」であり、その人びとがなすべきことは「どうしてもしなければならないことを見分けること」

ひどく感じ入った。

竜と人との交わり。
言葉の通じぬ男女の婚姻。
異種同士の結合。

そういうものに惹かれる。
自分にはないものを求める。
その気持ちわからないではない。

なぜ求めるのか。
それを知りたいと思う。
男性乳がん
ぶんだばさんが「徒然なるままに時間のあるときにPCに向かひて:何科で診察を受けたらいいのでしょうか?」で男性の乳がんは何処で診察受けたら良いかと仰っていました。

そこで少々調べてみたのですが「兵庫県立淡路病院外科の相談掲示板(消化器一般外科・内視鏡)」の投稿[691] 男性も乳がんとかあるんですか?で「何科に行けばよいのか」に「外科を受診するべき」と書かれてありました。

ここにも書かれてあったのですが、しこりがあり触ると痛いと相談されています。すると、答えている方は「一般的には痛みというのは癌の特徴ではない場合が多い」と仰っています。勿論、絶対に違うという事ではないと回答されている方も書かれていましたが、痛みは癌の特徴ではないというのも初めて知りました。

そこで他に調べてみたのですが、しこりを発見しても痛みはなかったと言われている人がいました。(関連記事:「CNJガンQ&A事例集男性乳ガンについて」
とはいえ、しこりをほっておいたら痛みを感じるようになったと書かれていますので、まったく痛みがないというわけではないようですね。
ただ、しこり以外に全く症状がないという事で、患者さんも乳がんであると診断されても信じられないと言われています。

それにしても男性が乳がんになる確率はかなり低いという事なので、それほど心配する事はないのでしょうが、それでもしこりという物には日頃から気を付けていた方が良いのでしょうね。
本人にしか分からない
岐阜県で起きた老人保健施設の原平事務長による家族5人殺害事件では、本人も死のうとしていたらしいということで無理心中であることは明らかであります。(関連記事:「無理心中? 岐阜の民家で5人死亡 - nikkansports.com 社会ニュース」

後に分かった事では、事件2日前に愛犬を引き取りに行き、その愛犬も殺害したということです。ということは、彼は衝動的に行ったわけではないという事ですよね。
一体彼に何があったというのでしょう。
彼の妻はその日、旅行に行っていた為に事件に遭遇していないのですが、動機は見当たらないと言っていますし、近所の人も家族で揉め事があったわけではないと話しています。
そうは言っても、実際にこのような事件が起きてしまったということは、何らかの葛藤が彼にはあったということなのでしょう。それが何なのかは本人にしか分からないのだと思います。

ですが、矢張り許せないのは二人の孫を道連れにしたことです。
百歩譲って、息子夫婦と何か他人には分からない確執があったとしても、何故孫までもと思ってしまいます。
憎んでいるのならまだしも、憎んでいたとは到底思えないようだったらしいですし。

彼は何時から無理心中を考えていたのでしょう。
何故そのような事をしようと考えたのでしょう。
家族に素振りも見せずに着々と計画していたのでしょうか。
普段から何をするか分からないと思われていたのなら「矢張り…」となるのでしょうが、今回の場合はそういうわけではなかったわけです。
考えれば怖い事ですよね。
ある時、普通の顔をしてやってきた自分の親族が、いきなり刃物を振り下ろしてきたらと考えると。
そんな事が、そうそうあるとは思わないのですが、全くないとは言えないわけです。私やあなたの身に起きないとは限らないのです。

それにしても、私の知り合いの女性にも夫が自殺をしてしまった人がいますが、彼女の話によると夫は闘病を苦に自殺したらしいのですが、矢張り全く素振りを見せなかったと言います。
彼女は夫が倒れてから代わりに家計を支える為に仕事に出ていたのですが、いつもの通り朝仕事に出て夕方戻ってきたら首を吊っている連れ合いを発見してしまったわけです。
きちんと食事も取り、洗い物をしてからの決行だったらしいのです。
この彼も死を選んでしまったわけですが、妻を道連れにしたわけではなかったのですね。

原平事務長はまだ息を吹き返す可能性もあります。
一人で死ななかったのは何故なのか──何故このような事をしてしまったのか、どうか残された他の家族に語って欲しいと思います。
そうでないと、残された家族は此れからずっと苦しんで生きる事になるでしょうから。

  

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