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Photo: 「無敵の心身」
夜の闇に浮かぶ月
そうだね。
君と同じだね。

振り返れば何時もその人はいた。
微笑んでいた。
何もかも許してくれた。
私の我儘全てを。

いなくなったことじゃなく。
その人が居てくれた事実が大事なんだ。

私も憎めなかったよ。
最後まで憎む事出来なかったよ。
夢にまで見たよ。
その人の夢を。

今夜は月が出ている。
君も見ているか?
君は立ち直れたか?
私は立っているよ。
君と同じように立っている。
そして、窓を開けて私は月を見ているよ。
春の夜風が気持ちいい。
遠い昔の街並みが思い出されては胸を締め付ける。

もう戻れない。
此処に居る私は一体誰なんだ?
あの辛くて悲しくて、そして愛しい夜は何処に消えていったのだ?
君の歌声が此処に届く。
君の笑顔が見える。
寂しくても笑っている切ないほどの笑顔が。

中空に浮かぶ月に映っている。
運を天に任せて
昨日の脱線事故では様々な方が日記で書かれていました。
他の方々と私も似たような事しか思い浮かばなかったのですが、ニュース映像でJRの職員の方だと思いますが、一人の男性が半泣きになって頭を下げている姿に興味を惹かれました。
その方は「どう思っているのだとか、どうするつもりなのだとか、その様な事は今は言わないでください」と言ったような事を叫んでいました。たまたま垣間見ただけだったので、その通りの言葉であったかは覚えていませんが、そんなような事を言っていたと思います。

あのような惨事があった場合、巻き込まれてしまった家族が「どうしてくれる、娘を返してくれ」と言うのならばまだ分かるとして、レポーターがその様な事を言ったとしたら、思わず「またか」と嫌悪感を感じてしまうのは私だけではないでしょう。とは言え、昨日見たその場面ではレポーターがそう言ったのかどうかは確認していないので分かりませんが。
ただ、もしレポーターがそのような馬鹿な質問をぶつけたとしても、それに対して半泣きになって「そんなことは言わないでください」とは言えないのではないでしょうか。泣いてどうにかなるものでもないでしょうに。簡単に泣いて欲しくないと私は思います。

「finalventの日記」では、精神論を説くのはどうかというような事を書かれていましたが、私もそう思います。
それはJR職員と思われる男性に向かって「どう思っているのか」と詰め寄る者達と同じなのではないかと。
確かにスピードが出過ぎていた事も原因に含まれるとは言え、運転手が一番悪いとかそういう事ではなく、自動列車停止装置(ATS)が古かったとか、置石があったとか、様々な要因も絡んでいると思うのです。
事故というものは、万全にしていても全く起こらないものではありません。どんなにいい加減にしていても起こらない場合だってあるはず。今回は悪い要因が重なってしまってこのような大惨事になってしまったのでしょう。
「極東ブログ JR福知山(宝塚)線脱線事故に思う」でも筆者の思いが書かれていましたので参考にしてみてください。そちらでは不審者がいたようだというブログを見かけたと書かれていました。

それにしても、たまたま乗り合わせてしまった人々は本当にお気の毒としか言いようがないですね。
ただ、こういう事は誰の上にでも訪れる可能性はあるのです。バスに乗っていても、飛行機に乗っていても、車に乗っていても、自転車に乗っていても、道を歩いていてさえも起きる可能性はある。例え気をつけていても災難というものは容赦なく襲ってくるものです。
そう言えば、私の友人には、乗っていたタクシーに後続車が突っ込んできて、首を痛めた事もありました。様々な事故が今この時、何処かで起こっているのです。

他人が運転するものに乗る場合は、自分ではどうする事も出来ません。二度と事故は起きないという事は皆無だと思いますが、それでも二度と起こさない気持ちでJR側にはこれからの事を考えて頂きたいと思います。
私はほとんどJR等公共の乗り物は利用しませんが、ごくたまに利用する事もあります。そのごくたまにという時にこのような惨事に巻き込まれないとも限りません。この次利用する時は、運を天に任せて乗り込む事にしましょう。
同じ人間なのに
友人の職場の中国人はこう言ったそうだ。
「どうして僕等だけ休みがないのか」
友人はゴールデンウィークには連休がある。
だが彼等中国人には無いのだと言う。
こんな所から不満が募るのだ。そして、それが憎しみへと変わる。
それは日本人とて同じ事。
不当に扱われれば、どんな人種の人間だろうがそうなるだろう。
友人は不当な扱いを受けている彼等を見てきて「同じ人間なのに…」と悔しそうに呟いていた。
日頃から上の者が中国人に対して威圧的な態度を取り、人間扱いをしていない事を友人は腹だたしく思っていた。
だが彼等はそこで働くしかない。
まだ働かせて貰えるだけましなのだ。
しかし、それだからといって不当に扱われるのは如何なものか。
そんな日本人がいるかと思えば、正当性の無い暴動を起こすような中国人もいる。
どちらもどちらだ。
嘆かわしいどころか反吐が出る。
あの曇り空を
紫月さんの「毒な雑記帳」4月21日で知った。

あの日、空は曇っていた。
楽しみにしていたアクロバット飛行。
私も見たよ。

そうか。
もうあのアクロバット飛行は見る事は出来ないのだな。



私もご冥福をお祈りいたします。
名に宿る魂を愛す
えっけんさんの「むだづかいにっき♂:意見と批判と匿名について」を読んで、七誌…失礼、名無し書き込みに対して不快に思っていた私の考えが少々変わりました。

名無しで書き込みをする、その方の心理というものを考えてみると、書かれた記事に対して否定的な意見を書くとか、ただの罵倒のつもりで書くとか、或いはその場所に訪れる他の閲覧者に知られたくないとか、そういった理由から名無し匿名で書き込みをするのでしょう。

ですが、幾ら書き捨てであっても多少は考えてHNくらいは書けば良いのにと私は思ってしまうのですね。極端な話、花子でも太郎でもどんなに有触れた名前だとしても立派な名前だと思うのです。
そうは言っても「名無し」も立派なHNだと言われる方もいるかと思います。そういう考えも間違ってはいないと思いますが、私は好きではないです。

例えば、訪れた場所に自分とは知られたくないがコメントを残したいと私が思ったなら、匿名用にHNを考えて残すでしょう。しかも、自分が「なかなか良いHNを考えたぞ」と思えるHNをです。一生懸命考えますよ。他人はたかだかHN如きで何を必死になっているのだと思うかもしれませんが、私にとって「名前」は大切な物なのですよ。自分の名前も、そして相手の名前も大切だと思っているのです。勿論、私が興味を持つ方の名前に限りですが。

そういう訳で、私は「名無し」という書き込みをされる方に対して、例えそれがどんなに素晴らしい意見だったとしても好意的には見れなかったのですが、えっけんさんの言葉に今更ながら気付かされた事があります。
それはえっけんさんがご自分の記事にコメントとして追記された言葉「うっかりしていて名無しのまま投稿した経験が何度もある」です。
そうか、うっかり名前を記入せずにという場合もあるのだなと。

ただ、どうやらえっけんさんは私とは違い、うっかり名無しで投稿して「しまった」と思っても「今のは私です」と追記のコメントは残さない事もあるようですね。と言っても、このえっけんさんの記事自体が一年も前の物ですので、今もその限りではないのかもしれませんが。(ご自分のこの記事のコメントでは追記されていました。→「むだづかいにっき♂:こんなblogはやっぱりつまらない」
私はえっけんさんのように「別に改めて名乗るほどのものでもないや」となれない性格なので、コメントを残した後は必ず書いた物に目を通し、誤字脱字があれば直します。場所によっては編集が出来ない事もありますので、訂正で追記のコメントをする事もあります。自分でも神経質だなと思いますが、気になって仕方ないのですね。

とは言え、えっけんさんのようにそれほど気にしないというスタンスであれば、名無し書き込みに対して要らぬ怒りを感じなくてもいいのかもしれません。それを知れた事は私にとっても有意義でした。
それでも私にとっては名前は大切です。私は名前の付け方を見て相手の方に好感を持ったりしますので。

それにしても、この記事を書きながらえっけんさんのブログを遡って過去から読んでいるのですが、過去の記事を取り上げて何かを書く事は無謀な事かもしれないと思いました。
こちらの記事(「むだづかいにっき♂:ニュースblogがつまらない」)のご本人さんの追記を読むと、考え方が変わってきていると書かれているからです。
それでもせっかく此処まで書いたのですから、ネタは無駄にしたくないのでこのまま書かせてください。

次に、えっけんさんがこちらの記事(「むだづかいにっき♂:誤字を指摘するか、しないか」)で書いていらっしゃるように誤字脱字は指摘して欲しいというのは私も同意見です。
それにしても本当に「いちいちそんなことで突っ込まないで」と他の方は思っているのでしょうか。
とは言え、えっけんさんもそのように思っているような気がするという記述をされているので、「突っ込むな」という声を実際に見たのかどうかは分かりませんが。
私は、恐らく「突っ込んで欲しい」という方が多いのではないかと思っています。私もよく何人かの方には「その漢字は違うようですよ」と声をかけるのですが「突っ込むな」とは言われた事はないですね。そうは言っても、心の中までは分からないので不快に思われてしまってるかもしれませんが。

という事で、えっけんさんのこちらの記事(「むだづかいにっき♂:ブログ王を知っていますか?」)の誤字を指摘いたします。

「よくあるBLOGのアクセスランキング総合サイトなんですけど、サービスが始めって間もないせいか、まだマイナーな存在のようです。」

上記の文章に誤字がありましたよ。私も細かい人間ですね。
心の奥の大切な場所に
身内に存在を否定されているという彼は、過去はどうあれ、少なくとも私は現在の彼を見て注目した。
普通の日は無いのかと言う彼の言葉は重みを感じる。
普通の日を過ごしている私にとってそんな彼の言葉は想像するだけで、理解出来たとは言えないだろう。

彼の様子を見に行くと、時折り君の姿が見える。
それが嬉しい。
以前は辛いだけだったが、今はただ心配する気持ちだけしかない。

「たまに死にたくなる」

君もそう思っていたか。
私は…そうだね、君のように「たまに」だね。
その「たまに」が、以前よりは回数は少なくなった。
君も図太くなったらしいが、私もそうなりつつあるよ。

君の事は心の奥の大切な場所に眠っている。
適度にマイナスを放出する事
やまめさんが「お客さんにどんな暴言を吐かれても何も感じないという人を以前は達人であると尊敬していた」と書かれていました。(参照:「新・柏原日記/リアル2ちゃんねる」
ですが、それでは良くない、人として良い傾向ではないと思うに至ったそうです。

私もやまめさんがおっしゃっているように、何も感じないという事は、傷付かない代わりに何も生み出さないと思っています。
何も感じない人は誰に対しても毒にはならないでしょうが、同時に誰も感動させる事は出来ないのではないでしょうか。

実際に「何も感じていない」と宣言する方も時折り見かけますが、私はその言葉を信じていません。人間とは必ず何かを感じていると私は思うからです。何も感じていないのではないと、ね。
誰かから投げつけられた暴言を「何も感じていません」とかわし、優等生な対応を取る事は、確かに一見大人な態度に見えるのでしょうが、それは本当の大人ではないですよね。

よく言われる事ですが、プラスがあれば必ずマイナスもあるのが自然であると。ですから、何も感じていないわけではないと思うのですよ。ただ気付いていないだけで、自分では分からない心の奥で傷付き、怒り、嘆いていると私は思います。

プラスばかりを追い求め、マイナスから目を逸らしていれば、それは歪んだ物をその人に植え込むでしょうね。
何事も両極端は良くないというのが私の考えです。ですから、適度に「傷付いた」とこぼす事も必要な事であり、過ぎなければ問題はないと思うのですよ。
全くマイナス面を見せないと言うのも、周りは安心するのでしょうが、本人には良い状態とは言えないのではないでしょうか。

それもあり、私は此処で時々呟くのですね。私なりのマイナス面とも言える呟きなのです。そうする事で、バランスを取っているのですから。
たった一人の存在
君の傍にいるよ。
かつて私が味わった痛みを感じていた君の傍に。

まだ心の整理がついていないのだろうね。
今までのあの親密さは一体何だったのか。
そして、一体自分は何をしてしまったのか。
明確な答えを貰えないままでは気持ちはくすぶったままだろう。
君もだったのだね。
私もそうだったよ。
約束の物は決して届かなかった。
君もそうだったんだね。
君の場合は私とは少々違うようだが。
それでもそこまで言われてしまっては要求する気も出ないだろう。

君には私がいるよ。
忘れてしまいなさい。
私がいるから。
私だけは決して君から離れない。

今までの人達にとってもそういう存在であるべきだった。
私はやっとそういう存在で在れる。
たった一人の存在に。
誰かにとってのたった一人の存在に。

私はなりたかったのだから。
死出の旅に赴くまでに
新聞を読んでいたのですが、そこに書かれたとあるコラムに目が止まりました。それは癌の告知に関する話で、ある老夫婦のケースが書かれてあったのです。

乳癌にかかった妻は病院嫌いであったため、気にしながらも更年期のホルモンバランスが崩れたせいだの何だのと勝手に思い込み、放置していたのです。しかし、あっという間に至る所に転移してしまい末期癌であると宣告されてしまいました。夫は彼女に話したら大変な事になると思い、告知しませんでした。
そして、妻はもう助からないという事でホスピス病棟へと移されたそうですが、矢張り彼女は「ホスピスとは死ぬ人が行くところ」と不満を漏らしていたそうです。夫はホスピスの方がゆったり治療が出来るなどと嘘を付いて妻を納得させたらしいのですが。
後に妻が亡くなってから夫は「本当に告知しないで良かったのだろうか」と気に病んだという事です。

告知をするかしないかは本当に難しいと思います。
私の知り合いにも身内を亡くした方がいますが、癌である事を告知して良かったのだろうかと言っていました。
もし私が余命幾ばくも無いとなったら、私は告知して欲しいですね。
死ぬまでにやっておきたい事は沢山ありますが、その中でも幾つかは必ずやっておいてから死にたいと思っているものもありますから。
事故など突発的な事で死ぬ場合は仕方ないのですが、死期が分かっているのなら、私のようなのんびり屋でも恐らく死に物狂いで達成するのではないかと思っています。

逢いたいと思っている人に逢う事。
書き上げたい書き物を書き上げる事。
行きたい場所に行く事。

これ等は、本来なら日々を過ごす上で「もしかしたら明日は無いのだ」と思う事で行動を起こさなければならないものであり、私もその事はよく分かってはいるのです。
ですが、私は追い詰められないと行動を起こせない人間なのです。
起こせない為に私は何一つとして残せる物が無い。いえ、全く残す物が無いわけではないのですが、自分では満足の行く出来ではないと思っているのですね。
そんな私ですが、時折り起爆剤のように投下される出来事というものがあります。病気の発症もそうですが、人間関係のトラブルでもそうです。
そして、私は思いました。或いは何か神のような存在が私に行動せよと示唆する為に、毎回無理難題のような出来事が起きるのかもしれないと。

ですから、私は告知を望みます。
最期の時には達成感を感じてから死出の旅に赴きたいですから。
桜の真実
「極東ブログ 敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」を読んで思い出した。


何時も夢に見る。
死ぬまでに一度でいい。
桜吹雪に巻かれてみたい。
西洋被れの私でも桜には特別な想いがある。
如何してだろう?
何故こんなにも桜に惹かれるのか。

子供の頃、桜がとても好きな人がいた。
その人が桜について熱く語るのを聞いた。
子供の頃はそれ程桜に思い入れはなかった。
そんなに好きではなかった。

今ではその人とも遠く離れてしまい、その人の桜への強い想いだけが残された。
桜はその人を思い出させる。
二度と戻らぬ幸福な二人の秘密の想い出。
桜の花びらに巻かれれば、あの時の私達に戻れそうで。

そうか。
だから桜が好きなのだな。