Photo: 「無敵の心身」
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辛さの共有
私の友人の息子さんはベランダで火を付けていたそうです。
それを見つけたのが私の友人だったのですが、彼女は問い詰めたそうです。「どうしてこんなことをするの」と。
彼女は分かっていたのですよ。息子が苛めに遭っており、恐らくその鬱憤晴らしにしてしまった事なのだと。
しかし、彼女は問い詰めてしまった。
何故なら、彼女は本人の口からその事を聞きたかったからなのです。
辛い事を押し込めてしまう事は危険であると彼女は思っていました。
自分もまた押し込めていた為に、とんでもない爆発のさせ方をしてしまった経験があったので、辛い事を「辛いのだ」と誰かに訴える事が出来なければと思っていたのですね。
ましてや、火を付けての鬱憤晴らしは、罷り間違うと大惨事になる場合もある。
自分の家だけが燃えるならまだしも、他人の家まで燃えてしまったら大変ですから。
「これこれこうだからと言ってくれさえすればいいのに」と彼女は言っていたのですが、息子さんは随分と長い間何も言わずにいたそうです。
それでもやっと「ストレスが溜まってやってしまった…」とボソッと言ったので、彼女は彼を抱き締めてやったそうです。

「S嬢のPC日記:受容と共感」を読み、友人の話を思い出したのですが、彼女は何時も息子さんに対してどう接していいか分からないと言います。
辛い事が「辛いのだ」と言えない人間の気持ちを彼女はよく分かっていて、他人の話をよく聞いてあげ、限りなく優しく抱き締めて相手を癒す事が出来るのに、如何して我が子にはそれが出来ないのか、彼女は悩んでいたのですね。悩む事はないのにと私は思いました。

「受けとめてくれる人間の存在を感じるとき、人は、自ら、そのつらさに向かい合って、解決という扉を見つけ開いていく強さを持つことができる」

S嬢さんが言われたこの言葉のように、彼女はちゃんと息子さんの辛さを受け止めていると私は思っています。そして、それを息子さんは肌で感じているはずです。
抱き締める事が大切であると分かっていてもそれが出来ない人もいるのです。
それが出来るのですから、もっと自信を持って息子さんに接して欲しいと思いますよ。
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君を救うのは君自身
「S嬢のPC日記:二人のわが子と、その個性」のコメント欄での次の言葉を、私の大切な人に捧げたい。

「自分を表現することができません」と言うぶんだばさんの言葉に対して、S嬢さんは「怖い、んでしょうね。怖い、んだと思う。誰から守るという意味で言えば、自分自身の視線からも守っているんでしょうね」と言われていた。

なあ君よ。
君も暗示にかけて日々を暮らしているよな。

現実では言えない自分を。
現実では表現出来ない自分を。
君は創作で表現していた。
言えない想いを忍ばせて誰かに届くように。

誰かに届いたとしても、それが自分の考えとは違っている事は当たり前に起きる。
だが、そうだとしてもそんな事は関係ない。
誰かに届くという事。
それが一番大事な事だと君は知っていたんだ。
君は本当は怖い物など何もないんだよ。
だから表現が出来るんだ。

君は暗示をかける。

世界で一番強い自分を。
世界で一番美しい自分を。
世界で一番頭のいい自分を。

そして、世界で一番愛される自分を。

暗示にかける事で君は強く生きていける。
それが幻想だとしても。
何時かそれは必ず現実の物となると信じて。
繰り返し繰り返し「こうありたい」と願いを込めて君は君だけの物語を思い描くのだ。
君は自分だけの物語を毎日紡いでいくのだ。

君自身を救う為に。
愛しい傷
「S嬢のPC日記:「かみあわない議論」に思う」のコメント欄で繰り広げられている事を読み、たった一つ思った事がある。

それはS嬢さんになら傷付けられてもいいと思ったという事。

他人から傷付けられて荒れた過去の私はもう何処にもいない。
此れからの人間関係で、どんなに相手から傷付けられようとも、相手を憎む事はない。
私が此れから選び取る人間から受けるだろう傷など大した事ではないと思える自信があるからだ。

私は此れから起こるであろう杞憂を指摘する人間を信用しない。
人は誰も他人を傷付けずに生きていく事など出来ないのだ。
傷付ける事を恐れる余りに何も言えなくなるとしたら、それは重大な言論規制に他ならない。

もっとも、過去に私から傷を付けられた人間には、この私の言葉も「あなたに言われたくない」なのだろうが。それでも私は言うだろう。

心寄せた相手から与えられる傷にさえも愛しさを感じる、と。
書く意義
「S嬢のPC日記:宛名の無い手紙」

上記のエントリは、私の友人達にもぜひとも読んで頂きたいと思い此処でご紹介いたします。

S嬢さんは、私が読んでもらいたいと思っている方に対して書かれているわけではないですし、私も勿論その様な事は分かってはいるのです。ですが、私は道ならぬ想いに苦しんでいる友人を救いたいと思っているのです。

そんなに彼女は潰されなくてはならない物を書いているのですか?
そんなに攻撃を受けなければならない行為をしているのですか?
それならば、もっともっと酷い方々も居ると思うのですが。
私は十把一絡げにしてしまう行為がとても嫌いです。
各々に対応した態度を取りたいと私は思います。

S嬢さん、私も拾いました。あなたの宛名の無い手紙を。
そして、私もそれを大切な人たちに流したいと思います。
他人に優しく自分に厳しく
彼女が好きで読んでいると言っていた君の書く物に、私は何時も「何言ってやがる」と思っていた。
最初は彼女が選んだというそれだけで嫉妬の対象。
何故なんだ。
どうして私ではなくその人なのだと。
分かっている。
私は彼女に声もかけていなかったから、彼女が私を選ぶはずもない。

最初はただの好奇心。
だが時折り妙に惹かれる言葉を紡ぐ。
反対にむかつく事もある。

今夜の私は「優しさ」について再び考えていた。
すると君も書いていたね。

そうだね。
大切な誰かが一人二人と増えていくと人は優しくなるものだね。
君はその優しさが自分にまで向けられる事を嫌がっているが、そんなにも難しいものなのか?
他人に優しく、自分に厳しくはそんなにも難しい?
確かに厳しさは孤独であれば保つ事は出来るだろう。
それは簡単な事だ。
だが、私なら他人に優しくしながら自分に厳しくある事を選ぶよ。

もっとも、今の自分がちゃんとそうであるかは自信はないが。
君へ
ずっと君を見詰めて来た。
あの崩壊した場所で君を見つけ、紡がれる言葉に惹かれ、矢も楯もたまらず声をかけた。

あれから二年以上は過ぎたか。
君という存在を知ってから暫くは見詰めているだけだった。
正直に言おう。
君の紡ぐ言葉に時には反発した事もあったんだよ。
だがそれを上回るほどに君に惹かれて惹き付けられて虜になった。
私も君のように誰かをどうしようもなく惹き付ける人間になりたいと思ったよ。
私を否定する人間さえも惹き込む人間に。

君に結婚について語った事もあったね。
とうとうその時が来たんだね。

おめでとう。
心から君におめでとうの言葉を捧げる。
触れ合う事出来ぬから支えられてきた
「音楽というのは、人を楽しませるものでもあるけれど、人を支えるものでもあるなあと思うなあ。」

「S嬢のPC日記:コード巻取り機能付きヘッドホン購入」でのS嬢さんのコメントだ。

その通りだ。
私も彼の楽曲で支えられてきた。
私が最も辛い時期に語りかけるよう届けられた言葉の数々。

正に生きる事とは如何いう事かを見せ付けてくれた尊敬すべき人だ。

勿論、実際に私を支えてくれた人達も居る。
だがしかし、彼は心の深い部分を支えてくれた。
それは実際に触れ合う事の出来ない存在だからだ。
存在さえも確認出来ない間柄であるからこそ、精神的に次元を超えて触れ合っていると私は信じているよ。

有難うをあなたに。

私は此処で頑張っているよ。
此処で自らを癒しているよ。

あなたのおかげだ。
あなたのようになりたいとそう思ったから。

だから有難う。
最大級の感謝を込めて、今夜もあなたの歌を聴く。
捩れた心
私の友人には所謂不倫と言われる恋愛をしている方もいます。不倫を恋愛とか婚外恋愛とか呼ぶ事に嫌悪感を示す方もいるかと思いますが、不倫であろうが不倫でなかろうが人を愛するという事はそれだけで立派な恋愛であるというのが私の考えであります。
相方や子供を苦しめているという事を振りかざして正義面を見せる方は、不倫を綴った日記などを徹底的に攻撃し潰して回っているようですが、他人の事など放って置けばよいのに、無駄な事をしているなあと私は何時も眇めた目で拝見させて頂いていますね。

S嬢さんが「S嬢のPC日記:ぶつぶつ」で「アンタの人生でしょ。勝手にやってちょうだいよ。と、思う。」と言い切っている方の方が寧ろ有難いと思うのですよ。
不快感を抱いているのは同じであると思うのですが、S嬢さんの態度の方が「大人な態度」であると私は思います。

日記などで不倫の事を書き、それを公にしている事に対して「書くな」とは誰にも言えないのだと私は思っています。それを言ってしまえば、それでは「書くなと書く事も書くな」と言われてしまっても仕方ないのではないでしょうか。
もっともこれは詭弁だと言われてしまうとは思いますがね。
正直に言えば「書くな」と互いに言ってもいいとは思っています。ですが、一言投げかけてそれでおしまいにしてしまう懐の大きさを持って欲しいと思いますね。

ところで、S嬢さんが最後に書いていた「ニョーボの「隙」を作ってるのは、亭主なんだろうな、と。」という言葉に、私は全くその通りだと思いました。結局の所、不倫をしてしまうという事は相方にも何らかの問題はあると思うのですよ。
私の友人の一人には夫から愛され大切にされて生きている方もいます。
その人には言い寄ってくる男性もいるのですが、全く相手にするという事はありません。
それは彼女の夫が本当に良く出来た夫であるからなのです。
不倫をしている私の知り合いのほとんどの方は、相方に非常に問題のある方ばかりです。
本当は、私の正直な気持ちでは、そのような相手とは即刻別れてしまえばいいという考えなのですが、それを決めるのは本人であるので、私は強く勧める事はしません。
私が尊敬するある方は「別れればいい」と言い切っていますが、私には言えません。
勿論、時々、この私でも嫌な気持ちになる程に自分勝手な不倫をしている方を見かけますが、だからといって一言忠告してやろうなどとは思いません。

好きにすればいいのです。
だから私は放って置きますね。

不倫の日記を攻撃する人の捩れた心など理解したくもないですから。
希望の所在、期待しないその裏に
親友よ、君にも読んでもらいたい。この記事のコメントにS嬢さんが書かれていた事を。「S嬢のPC日記:BOOKMARK」

「「希望は自分に対して持つもの」だよ?期待しない、期待されないってことは、「愛」の一つの形でもあると思うよ?期待しない、期待されないってことは、別の言い方で言うと、相手自身が決める、主体者自身が決めるってことを信じることでもあるわけだからね。」

これを読んで君を直ぐに思い出した。
君が私に何時も言っていた事だ。
だが知っていたよ。
「期待していない」と言いつつ、君は私に何時も期待していたと。
それを肌で感じていたから私は頑張れたのだ。

きっと君の気持ちは彼女に通じる。
そう信じたい。
そして、私の想いも彼女に届くよう、心から信じたいと思った。
一人か二人か、それは問題じゃない
私の知り合いのある女性は男のお子さんが一人しかおりません。
昔は周りから「一人ではかわいそうだ」とか「兄弟がいないと闘争心が生まれない」とか様々な事を言われたそうです。

彼女は自分が子供をちゃんと育てていく自信がなかったと言います。
もし複数の子供を持ってしまったらどちらか一方にしか神経がいかず、片方の子供を蔑ろにしてしまいそうだと思ったのだそうです。

S嬢さんの「S嬢のPC日記:映画「ハッピーバースデー 命かがやく瞬間」」を読み、その彼女の事を思い出したのですが、恐らく彼女もS嬢さんの記事に書かれてあったような事が起きてしまうのではと危惧したのかなと思いましたね。

確かに子供時代に他の兄弟が優遇されてしまった為、自分もまた親になった時、自分の子供に対して同じような虐待をしてしまうという恐れはあるでしょう。ですが、それは絶対にそうなるとは限らないのも確かな事であります。
巷では、たまたま虐待している親の過去がそのような過去だったからとそのことばかりを取り上げて騒ぎ立てますが、それが多いとは限らないのだと思います。
恐らく、S嬢さんの息子さんのように一時期は荒れたとしても、親の気持ちが何れは子供に届く時が必ず来るのだと私は思いますし、そう信じたいです。

そういえば、コメントに「母は話したい事あるのだろうけど、私のダメな部分を注意するのに忙しく(笑 本心を語る暇はない。」と書かれていた方がいましたが、私の友人は、昔は母親には本心が話せず苦手だったと言っていました。それは、矢張り子供の頃は自分の駄目な所を怒られてばかりで、萎縮してしまい話せなかったのだそうです。
ですが、今は自分の夢や自分の気持ちを素直に話せるようになったと言っていました。
それはもう子供の頃のように、注意される事がなくなったからだと彼女は思っているらしいのですが、私から見れば彼女は変わっていないと思うのですがね。
そう思うと、確かにS嬢さんの言われる通りで、子供に苦手だと思われる親は反省しなければならないのだろうなと思いました。

話は変わって蛇足ながら、記事内の「べーべー」という擬声語が新鮮でした。「べーべー」が好きです。
ただ聞いて欲しい
「S嬢のPC日記:昨夜の電話」を読んで思った。

親友よ。
君程、何も理由も聞かずにただ聞いてくれるだけの人はいなかったな。
彼女達も君が受け入れてくる事を分かっていて、それで君に何もかも話してくるのだろう?

親友よ。
また君が女性に慕われる訳が分かったよ。
反論は許さないぞ。(笑
私の生きている姿をあなたに見せたい
「S嬢のPC日記:「生きる」ということ」へトラックバックされた「Carvaria 生きるということ」で展開されるS嬢さんの言葉を読み、生きるという事について考えてみました。

かつて「あなたは世界に愛される為に生まれてきた」という言葉をくれた人がいました。
誰も自分を愛する者はいない、誰も自分を気にかけてくれる者はいない、誰も自分が生きている事などに関心を持ってはくれないと、そんな思いに囚われる事は、誰しもある事でしょう。

人は誰もあなたを愛していないわけではないと言うかもしれません。誰も愛してくれなくても、あなたを生み出してくれた親だけは愛してくれるだろうと。
ですが、残念ながら、たとえ親であっても絶対に子を愛するものなのだとは誰にも言えないわけであります。
この世で親だけは自分を愛してくれると思っていたのに、愛していてくれたわけではなかったと気付いた時、どうやってその辛い思いから抜け出すか。

それが「世界があなたを愛している」ということなのです。

世界があなたを愛しているとは、その人自身が己を愛するということなのかなと私は思いました。

ただ、自分自身を愛する事が出来ない方もいます。
私の大切な友人にも己を愛する事が出来ずに、自らの死を望んでいる者がいます。
幾ら「あなたを愛しているよ」と伝えても、それでも生き続ける事が困難で何時も死を身近に感じて死ぬ時の事ばかりを考えている。

それを見続けなければならない辛さを誰が想像出来るでしょう。

大事な人の為に生きてくれと言っても、それさえもその人の足枷としかならない事実。
分かっています。その人は心の病に罹っているから。
そんな時は、足枷になる言葉をかければかけるほどその人を追い詰めてしまうのです。

私も人並みに生きていくのが辛いと思う事もあります。
ですが、私の尊敬するある人が言っていた言葉を胸に抱いて、私は這ってでも生き続けようと今は思っています。

「生きる事を謳歌せよ。それを生きて欲しいと願う大切な人に見せ付けよ」

そこには言葉は必要ないのです。
私がしっかりと地に足を付け生き続け、生きる事はこんなにも楽しい事なのだと見せ付ける事で大切な人が生きようと思って下さるのなら、私は生き続けましょう。

それが私の生きる理由なのです。
S嬢さんが「S嬢のPC日記:アンチエイジング:3」のコメントに書かれた言葉にこういうのがあった。

「わたし、「自分の好きな女を思う男の顔」って、好きです。いいなあと思う。対象が自分じゃなくてもね。」


親友よ、君が女性から慕われるのも分かる気がしたよ。(笑
他人を騙る
私がよく読みに行く日記で、筆者の方がとても憤っていました。
あるサイトの掲示板で、誰かが自分の名前を使い、そのサイトの管理人への文句を書いていたのを見つけたそうです。勿論、筆者はそのようなことはしていません。

時折り、捨てHNで他人を誹謗中傷する書き込みをされる方もいるのですが、名無しとは違いちゃんとしたHNを考えて荒し行為をする場合もあります。ですが、その名前がウェブ上にまったく存在しないというわけではないですよね。
騙られたと言う筆者も、普通に考えればたまたま同名だったのかもしれないとなるわけですが、今回の場合は違うようです。ご自分のサイトのアドレスが残されていたようなので、間違いなくこれは筆者への嫌がらせに他なりません。

嫌がらせとして直接荒しをしてくるのも嫌なものですが、もっとも忌むべきものは、このように勝手に自分の名前を使われて他人のサイトを攻撃する嫌がらせです。
こればかりは、何処でそのような事をされているか分からないのでどうしようもないですね。
対処法としては、検索で確認していくしかないでしょう。掲示板等なら検索で引っかかる事もありますし。しかし、これがメールなどでされた場合は対処しようがないですね。
後は、日記などで普段通りに綴って、自分はそのような卑怯な真似はしない人間なのだぞと毅然としているしかないと思います。

自分の事を日頃からよく見て下さっている方であれば、自分がそのような卑怯な事をしないと分かって下さるでしょうし、それでも誤解してしまう方は此方から願い下げすれば宜しいのです。そのような事で誤解するという事は、それだけ自分の事をちゃんと見ていてくれなかったという事で、いい機会ですから縁を切れば良いと私なら思います。

しかし、精神的な打撃は必ず残りますね。
サイトを見ている方には、普段から仲良くしている方々だけではない方もいるわけです。とすれば、沈黙のギャラリーの中には真に受けて吹聴して回る方々もいることでしょうし。
騙られる事さえなければ要らぬ誤解もされないとは思うのですが、とんでもない事で恨みを買ってしまっている場合もありますので、どんな方でも騙られてしまう危険性はあるでしょう。

それにしても、私も数回程この筆者にコメントを残した事があるのですが、最近では読んでいるだけでコメントはしておりません。
よもや私がその犯人であると思われてはいはしまいかと危惧しておりますが、もしそうであっても仕方ないかなと諦める事にしましょう。それに、そうであるという確証もないですしね。

実は、私は他人を騙る事は全面的に否定しているわけではありません。ただ、騙る事を全て他人の攻撃の為にしている行為であると断定して欲しくないという事です。とは言っても、どのような理由があったとしても、騙るという行為は卑怯な行為である事は否定しません。
騙らなくては正直な意見をいう事が出来なくなってしまった、そんな憐れな人間がウェブ上には沢山いるのだと心の隅にでも置いて欲しい、そんな風に思っています。
一人でも
あなたを認める者はいる。
一人でもね。

ああ、それはもしかして現実の人間にか?

現実に認められなくても、私はこの世界で認められても満足するがね。
あなたはそうじゃないのかな?

私はそういうあなたを認めているよ。
それでは納得できないかもしれないが。
だが認めているから。
それは忘れないでくれ。
君が生きているという幸せ
「『あなたがいてくれてわたしは幸せ』って、 誰かに思ってもらえることって、とても幸せなのだと思わない?あなたがあの子がいてくれて幸せと思うのなら、それはそれだけでも、あの子が幸せだということなのではないかと思う。」(参照:「S嬢のPC日記:「たったひとつのたからもの」:幸せとは」

S嬢さんの言われた言葉を見て思った。
その人が居てくれる事が幸せならば、それがその人の幸せであるという考えでいけば以下の事も言えるのではないか?

何処にいるか分からない、どのような辛い環境で凄惨な人生を生きているかも分からなくても、生きていてくれさえすれば幸せだと親は思うのではないかと。そして、その我が子は遠く離れた地でそう願っている親が居る事で、その子は幸せなのではないかと。

その子をかわいそうだとか、不幸せなのだとかは誰にも決められないのだと。

「幸せというものを考えるときに、「相対評価」でとらえる幸せではなく、「絶対評価」でとらえる幸せをを知り始めること」

S嬢さんのこの言葉が全ての人の心に届くよう切に願う。
献身的な愛は素晴らしいかそうでないか
好きな女性の為に何らかの形で貢ぐ行為は確かに感動するものだと思います。(参照:「ある愛の詩」

ただ、私は、プレゼントをされた女性がその後どう行動したかが気になりますね。「愛って素晴らしいね」で終わる事が出来ればいいのですが、私は最後まで見なければ素晴らしいかどうか判断出来ません。
確かに、男性の行為はとても献身的で微笑ましいとは思いますが、だからと言ってその行為が報われるかと言ったらそうではない場合もある事でしょう。
しかし、件の記事を読んでみても気付くように、これではこの男女がどういう関係であるかが読み取れない。ちゃんとしたお付き合いをしており、彼女の為には何でもしてあげたいという気持ちからそういう行為をしただけなのかもしれないのですが、或いは男性の片思いであり、女性は男性に対して恋愛感情を抱いていないとも取れます。

恐らく、書かれてある感想の「愛って素晴らしい」は、この二人が恋人同士ではなく男の片思いであり、彼女が欲しがっているものを手に入れる為に頑張り続けた、その行為への賞賛なのでしょう。

この記事の存在を教えて頂いた日記(参照:「まごころとフィギュアを君に」)の筆者が書いていた別のエピソードも、気持ちが悪いと言われる方もいるらしいのですが、私は素直に「愛って素晴らしい」と思いましたね。

しかし、矢張りその後の動向は気になる私なのですが。
私は「めでたし、めでたし」の向こう側が見たい人間なのですよ。
優しい道化師へ
恋愛とは美しき誤解、か。
愛とは夢と幻。
幻想の中の産物。

この記事を君に捧げたい。
頑張らないにも勇気がいるものだ
「人間には「がんばらない自由」があって、そして「がんばる自由」があるはずです。」

「S嬢のPC日記:「たったひとつのたからもの」:ドラマを見る前に」の中でS嬢さんが書かれていた言葉だ。

人によっては免罪符と為りうる恐れがある。
だが、人によっては大いなる慰めとなるだろう。

君よ。
へとへとになるまで頑張った君よ。
頑張らない勇気を持て。
人は成長しなければいけない
「S嬢のPC日記:迷惑メールに関する記事の総括」を読みました。

迷惑メールは誰でもが貰う恐れのあるメールであり、私にも様々な不審なメールが届いたものでした。
インターネットを始めた初期の頃は、間違いメールを装ってメールが送られてくる事はなかったのですが、知人からのメールでウィルス感染をしてしまうという事もありましたね。

私自身は迷惑メールを晒すという事はしませんが、他人が晒しているのを楽しく読ませて頂いています。不謹慎ではあるのですが、書かれている事が興味深くて好きなのですよ。
書かれている内容が興味深いというよりは、それをもし誰かが考えて書いていたとしたら、その人は一体どのような人だろうか、どういう気持ちでこのような文章を書かれたのだろうかと想像してしまうのです。

S嬢さんが言われているように晒すことが煽る事であるとは私は思わなかったのですが、S嬢さんが「どんな風に、誰に影響がいくかわからないという危険性を再考する必要性も感じました。」と言われているのには甚く感心しました。
つまり、S嬢さんが言われるのは、業者側への煽りというわけではなく、インターネットで悪行をする者に対しての煽りを懸念したという事なのかなと勝手に推測しました。

ここまで彼女の書かれるものを読んでいて、彼女は実に急速に成長をしていらっしゃるなあと感心致しました。ブログを読んでいると分かります。

私は、こういう勤勉な方が大好きです。
夢見る二人
今朝は良い言葉を見ました。

私が読ませて頂いているある日記のコメントに「いいも悪いも人目を引き目立つ存在だと、様々なことを言う人間が出てくる」というような事を書かれた方がいました。

そのコメントを書かれた方は更に「芸能人にしても、誰からも好かれる人間は大物じゃないらしい。本当の大スターは、好きと嫌いが半々ぐらいなんだそうだ」と書かれていて、私は思わずある有名人二人を思い出しました。一人は作家、一人はミュージシャンなのですが。

誰からも好かれる方は、私は好きではありません。
誰にでも平等に愛を注ぐ人に私は魅力を感じません。

自分がそうであるとはっきり認識したのは、ここでエッセイを書くようになってからなのですが、私は誰にでも優しい態度を取れる人間ではないということ、端的に言えば、私は好きな人間だけにしか優しくなれない贔屓をする人間だったという事です。

今まで私は、自分が贔屓をする人間ではないかと薄々感じつつも、そのような事ではいけないと思っていた為に「良い人」を演じてきたのかもしれません。ですから、私が時折り見せる本音に違和感を感じる方が出てきて離れていってしまうのを悲しい思いで見詰めていました。

私を非常に愛してくださる方がいるかと思えば、私を徹底的に憎む方もいる。その事が私を苦しめていたわけなのですが、此処に来て私は憎まれても落ち込まない、怒りを感じない心をやっと手に入れたような気がします。
とは言え、全くマイナスな心を持たないというわけではありません。
適度に落ち込み、怒りを感じつつ、それを増幅させないのが一番良い事なのでしょうね。
以前の私は、憎まれたら最大限の力を持って抵抗したものです。
そうではない、私の言いたい事はそんな事ではない。私の事を分かって欲しい。私をもっと理解して欲しいと叫びながら訴えていたのです。

伝えたい事を伝える努力は此れからもしていこうと思っています。
ただ、声高に言わないというだけで、私は淡々と綴っていくことが出来ればいいなと思っております。
その先に見えてくるものを知りたい
「想像するその先に、あらゆる扉が待っている」という言葉をS嬢さんがコメントで書いていました。(参照:「S嬢のPC日記:迷惑メールに関してのお勉強:その3」

この考えはとてもいいですね。
私も同じ考えですから。

とはいえ、全てを見せて欲しい、全てを聞かせて欲しいと思う私も確実に存在するのです。
隠さずに見せて欲しいと。聞かせて欲しいと。

恐らく、全てを見せていい人間と、全てを見せてはいけない人間がいるということなのでしょうね。
私は全てを見せてもらっても、そして全てを聞かせてもらっても、そこから新たな想像を膨らませる事が出来ると自負しております。


だから君の全てを聞かせて欲しい。
私に君の全てを見せてくれ。
それだけを望んでいる。


と、全ての人に言いたい私がいるのです。
さあ、あなたは聞かせてくれますか?
世の中似た者ばかりが溢れている
S嬢さんの「S嬢のPC日記:うふふ」で紹介されていたブログに飛んで「ワリとキリギリス日記/先輩」を読んだ。

私の親友、君のことかと思ったよ。(笑
聖人君子など何処にもいない
君が何を苦しんでいるのか、私には分からない。
君が何に脅かされているのか、私には分からない。

君のように私も思った事はあるよ。
ただ、私はそれを他人の為に行使しようと思ったものだった。
だが、出来なかった。

私も君のように一言で済ました。
過去の事だ。
君の存在を知る前の事だ。

聖人君子など何処にもいないよ。
君も私も聖人君子なんかじゃない。
何処にもそんな存在はいない。
神がこの世にいないのと同じで。
神がいなければ悪魔もいないものだ。

そして汚れ無き存在も何処にもいない。
私はそう思っているよ。
あなたの癒しに繋がればと
えっけんさんのブログを読破したので、今度はえっけんさんのブログで存在を知ったS嬢さんのブログを読破しようかなと思っています。

「S嬢のPC日記:わたしがブログを持つ理由」を読んで、私がブログを持つ理由を書いておこうかなと思いました。
私のブログは、えっけんさんやS嬢さんやぶんだばさん達のように、誰かがコメントを残すようなブログではないと思っています。
もとよりそれは分かっていた事ですので、コメントやトラックバックについての私の思いや考えはあまり書かぬようにしてきました。
それらについて詳細な私の考えを書く事は、私が何かを書く上での自身の妨げになると判断したからであります。

コメントのされやすい記事を書くようにする事も可能なのでしょうが、私はそれを善しとは思っていないので、これからも私はこのような雰囲気で書き続けていくことでしょう。
ぶんだばさんのように、或いは旧知の友のように、時々ふらりと立ち寄り書き込みをして下されば、それだけで私は書き続ける事が出来るなと思っています。

ある方は、私のブログが癒しとなっていると言って下さいました。
私のブログでは、エッセイはそう言われてもおかしくはないと思っていましたが、呟きのカテゴリでは果たして癒しとなっているだろうかと危惧しておりました。少々乱暴な語句を羅列したりしておりましたので。
ですから、「癒しになっています」と言われた時は、本当に嬉しく思ったものです。
私は誰かにとってそういう存在になりたいと常日頃から思っていましたので、正に私にとっての一番の褒め言葉を下さったなあと思っています。有難うございます。
これからも、此処に来れば穏やかな気持ちになれるブログを目指したいと思っています。
今注目の語句とは?
一時期、私はエッセイを書いていない時期があり、その頃は本当に自分の殻に閉じこもっていたなと感じています。今でもまだ殻に閉じこもっている感はありますが、それでも一時期よりはだいぶ周囲に関心を持つようになってきました。
それでも、友人が言うには私は暢気であるらしいので、矢張り周囲に対しての反応は遅いようです。

最近リンクさせてもらったGenさんのブログにて知ったのですが「舜!ワード」なるサイトがあるようですね。
私が確認したのは「2005/05/12 13:00~2005/05/12 14:00 の 瞬!ワード」で一位が「サラリーマン川柳」でした。
他には「地震動予測地図」などありましたが、「エドツワキ」なる語句もありました。
何だろうと思ったのですが、女優原田知世の結婚相手だったのですね。私の友人が原田知世のファンでしたが、それに付き合わされて彼女の映画はよく見たものでした。
そういえば、彼女のライバルと言われていた薬師丸ひろ子は今は何をしているのでしょうね。最近見ないようですが。
同一線上に見ないほうがいい
「むだづかいにっき♂:ブログの書籍化」を読みました。
特にコメントで交わされる意見は読み応えがあるなと思いましたね。

ブログの書籍化も、コメントでえっけんさんが言われていたように、ただの日記として書かれているものであれば書籍化もいいかなと思いますが、例えば私が今此処で書いているような記事では書籍化しても意味は無いと思っています。勿論、私自身も此処で書いた物を書籍化しようなど考えた事もありませんしね。

私の友人には作家になりたいという人も何人かいますが、そういう方々も日記などを書籍化したいとは思っていないようです。
彼等はあくまで物語を書き、それが本になって多くの人に読んでもらえたらという夢を持っているのです。
ですが、なかなか道は険しく、投稿しては落選するという繰り返しです。そして、その落選した小説を自サイトで公開し、誰かに読んでもらい気に入ってもらえたら幸せであると呟くのです。
落選したからといって、それが下らない小説というわけではありません。
中には、巷で売られている小説にも見劣りしない小説もあるのですよ。ですが、あの世界は運も味方に付けなければ成功はありませんので、仕方ないのです。ですから、落選したからといって気落ちする事はないのですが。

私はサイトで公開される小説も書籍になった小説もそのどちらもいい所があると思っており、どちらも読むのは好きです。
本になっているものは昔から好きであるので物語や登場人物で魅了されますが、サイトで公開されるものについては、ウェブでしか表現出来ない事をして公開している小説に惹かれます。
音楽を流したり、壁紙に凝ってみたりと、賑やかな小説は私は好きですね。
ですが、実はこういう賑やかなページとは、小説読みにとっては無意味であると敬遠されるようです。小説とは書かれた物語だけが重要であるということで、過剰な飾り付けは邪魔なのだということです。

確かにその考えも分からないではないのですが、私から言わせれば、物語だけを読みたいと思うなら、ウェブで読まずに本を買って読めばいいのではないでしょうか。
せっかくウェブでは様々なお遊びが出来るのですから、そういう動きのある絵本的な物語を楽しもうではないですか。
音楽あり、イラスト満載、本では決して出来ないであろう動きのあるウェブ小説。私は昔から絵本が好きでしたが、今のウェブで読める小説はその延長線上に位置しているように思います。

少し話しが逸れてしまいましたが、つまり、ブログにしても、何を書いているかによっては書籍化もいいのでしょうが、ブログ自体はブログのツールを使用してこそのブログであるというのはえっけんさんが言われている通りなので、ブログと書籍は別にして考え、一本化しない方がいいでしょう。
それぞれがそれぞれのいい所を伸ばせばいいのであって、無理に同一線上に考えない方がいいと私は思いますね。
不快に思う基準
私の友人は、学生の頃に自分の祖母が痴呆症(今では認知症と言うのだそうですが)になり、下の世話をした事があると話してくれました。
その頃の彼女の祖母は痴呆の初期の段階であり、身体を支えて寝床近くにある簡易トイレに座らせ、用を足したあとの小水をトイレに捨てに行くくらいで、紙で拭くという行為はまだ自分で出来ていたそうです。
そして、彼女を孫であると認識していた時間もまだ存在しており、その時に彼女は祖母から申し訳ないと何度も言われたそうです。
しかし、彼女は全く嫌だともやりたくないとも思っていなかったと言っていました。

S嬢さんのブログを読み、先にご紹介した彼女の話を思い出したわけですが、S嬢さんの書かれていた事は排泄物を笑いの種にする風潮の話題であり、私が思い出した事とは必ずしも関連があるというわけではありません。(参照:S嬢のPC日記:課せられた「宿題」
ただ、話を聞かせてくれた友人もそしてこの私もお笑いというものがことのほか好きで、考えてみたら排泄物とか下ネタで笑いを取るお笑いもあるなあと思い出したのです。

私は、子供の頃からお笑いというものが好きで、下らないものから下品なものまでそれほど嫌いに思う事はありませんでした。
たとえば、漫画などでも、子供というものは下ネタや下品な話がとても好きな傾向があり、すぐに「うんこ」とか「おしっこ」とかを恥ずかしげも無く大勢の前で連発します。
友人は結婚しており子供もいますが、その子供も幼い頃は「うんこ」「おしっこ」「おちんちん」という言葉ばかり言っていたと嘆いていました。
子供というものはそういうものなのだと彼女も分かってはいたそうですが、それでも矢張り我が子に他人の前でそのような言葉は言ってほしくないと思ったという事でしたから。

私はS嬢さんが言われているように、排泄物を笑うという行為が、必ずしも障害や介護を必要とする者が存在しないという人の行為であるとは思わないのです。
勿論、そういう介護の必要な身内に対しては不用意な言葉は言ってはならない、笑ってはならないという気持ちは、全ての者とは言えないまでも、大多数の方が知ってはいると思うのです。
現に、S嬢さんの所にトラックバックを送って来られた方は丁寧にお詫びをしているという事でありますから、悪戯に排泄物を笑いの種にしているというわけではないと私は思いました。

そうは言っても、S嬢さんの控えめな抗議があったからこそ、相手の方も「安易に扱っては傷付く者もいるのだな」と初めて気付いたのかもしれません。それはただ第三者である私には憶測の域を出ないわけなので、本当なのかどうかは分からないわけですが。

S嬢さんが、ご自分の課題について「やるべきはこととは」と言われているのですが、矢張り何かの事象で自分はこう思ったと正直に書く事が大切なのではないでしょうか。
排泄物で笑う人種の中には、「こういう風に不快に思うのですよ」と訴えたとしても通じない愚か者もいるでしょうが、全く通じない人ばかりではないと思うのです。
不快に思う基準は人それぞれなので、正直に「私はこう思ったのです」と言う事は間違った事ではないと私は思います。

「大人な態度とは」に関して巷では様々な議論が為されているようですが、「大人の態度とはこうである」とは誰にも断言は出来ないものです。それは皆さんご承知だと思うのですが、時々「こうである」と断言されている方がいて、それはそれで構わないとは思うのですが、書き方一つで相手の心を逆撫でしないで済むのにと私は思うのですがね。
そして、私は、S嬢さんは読む側に逆撫でを起こさせない書き方をされているなあと感心しました。ご本人も声高に何かを言うわけではないようですし、何かを否定した書き方をされていても、穏やかに読む事が出来るのですね。

これが「大人な態度」なのかなと私は思いました。
優しい人間になりたい
やまめさんとの話で「優しさ」について考えていた所、とある日記に書かれてあった言葉に「なるほど」と思いました。

その方の考える優しさとは、相手に気付かせない優しさであるということです。(参照;「ドジョウの先っちょ/今回はオチなし2005年05月06日(金)」

この方は、それは「日本に昔から伝わる気遣いのようなものに近いと思います」と書かれていました。
それを踏まえて私は我が身を振り返ってみました。
私も、私が好きだと思っている方に対しては、あからさまに「あなたを心配していますよ」とか「私はあなたの味方ですよ」と臆面も無く言います。
人によっては、そういうあからさまな言動というものは胡散臭く見えてしまうものですが、私が好きになる方々は皆さん純粋な方達らしいので、私を「優しい人だ」と言って下さるのですね。

しかし、もしかしたら私のこの気持ちを重圧に思われている方もいるかもしれません。そして、私の気持ちに報いる事をしなくてはと思ってしまうかもしれませんね。
ですが、私のこの気持ちに何か返さなくてはと思われてしまったら、私も心苦しいと思います。
以前、私を心配して下さった方が、ご自分の病のせいで私が苦しんでいる時に声をかけて上げられなかったと謝って来られた事がありました。その方は、私から身に余る好意を受けていたのだと思っていたようで、私にも声をかけなければならないと思い込まれていたようなのです。
ですが、私は冷たく「無理に声をかけられても心苦しい」と言ってしまったのです。私としては、私の事よりも自分の事を優先して欲しいという気持ちから出た言葉だったのですが、その方は酷く傷ついてしまわれました。

互いに互いを大切に思うあまりに起きた擦れ違いだったのかなと今は思っております。
ですから、相手にそうと知られないようにさり気なく手を差し伸べるのが本当に優しいということなのでしょう。

私はそんな優しい人間になりたいと思います。
腹黒いかそうでないかを決めるのは誰だ?
ぶんだばさんが、えっけんさんのブログに「また、コメント(荒らし)に対しては比較的誠実に真面目に答えるのですが、それは私の腹黒い部分であって「沈黙の読者に『ぶんだばはちゃんと答えてる』と見せる」という意味が大きいです」と書かれていました。(参照:「むだづかいにっき♂:批判なのか、悪口なのか。」)

彼女はご自分のブログで、一見お行儀の良い批判者のようでいてその実、ただの困った人という方に対しても真摯な態度で対応をされています。とても立派な方であると私は思っています。
恐らく、私が「ぶんだばさんは立派な方だ」と言えば、彼女は「そんな事はないよ」と言われるかもしれません。現に、えっけんさんのブログで「真面目に答えているのは腹黒い部分である」と書かれていますから。

かつて私に「本当に悪い人間は自分を悪い人間なんだよとは言わない」と教えて下さった方がいます。
その方とは今でも仲良くして頂いていますが、彼は更にこう言いました。「君は自分を疑り深いと思っていて、誰にも騙されないと思っているようだ。そして、誰かが、自分は悪い奴だからと正直に言っていれば、いや本当に悪い人間は自分から悪い奴なんだとは告白しないものだ、だからあなたは悪い人じゃないと言うだろう。だがね、実はもっと悪い人間は、自分の事を悪いと言っておけば君のような素直な人間がそう思ってくれると、そこまで計算して自分は悪い奴なんだよと言うものだということを知らない。だから、気をつけたまえ」と。

彼は私が知らないと言いましたが、それくらい私にも見当はつきましたよ。
ですが、確かに彼が言う通りだったとしても、ならば一体相手の何を信じればいいのかと言うことになりますよね。
私は、例え騙されてしまっても構わないと思います。
だってそうでしょう。
それならば、そう言う彼の事でさえも、信じる事は出来なくなりますから。
自分がこの人ならと選び、そして「一緒に居よう」と決めたのは全て自分自身なのですから。そうでないと、私は自分さえも信じられなくなります。ですから、私は私を信じたい。私の選んだ人は信じるに値すると。
勿論、何らかの事情があって、私に何か隠している事があるかもしれません。
そして、それが結果的には私を騙している事になったとしても私の選んだ人は私の為を思ってくれたんだろうと思います。
そう言ったら彼は「君は本当に馬鹿だね」と言っていました。はい、馬鹿で結構、そんな馬鹿を友と言ってくれるあなたも馬鹿ですから覚えておきなさい───とは言いませんでしたがね。

腹黒いという事に関して、ぶんだばさん以外にもえっけんさん他何方かが「自分もそうである」とおっしゃられていましたが、皆さんに対して私は何も嫌な感じはしませんでした。
ただ、人によっては「腹黒い」という言葉だけで拒絶反応示す方もいらっしゃるのでしょうね。
もっとも、そんな事くらいで拒絶反応を示す者に、彼等が更に過剰反応示すという事もないのでしょうが。

ところで、そんな彼等は、私を「腹黒い」と思うでしょうか?
確かに私もぶんだばさんの意見「読者に対して自分がどのように見えるか」を考えて物を書いております。それで言えば私も「腹黒仲間」とも言えますがね。

  

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