Photo: 「無敵の心身」
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ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
「いくつになっても陽気で無邪気だったモーツァルト。幼いうちから旅に出て、その早熟な才能を権威ある王家の面々に披露するときもにも、彼はけっして物おじすることはなかった。しかし、社会への適応力に欠けた精神面の未熟さは、完璧な完成度を誇るその音楽世界とはまったく相容れないものだった。」(グレート・コンポーザー第8号より抜粋)

人間性と作品が必ずしも合致しないものであるというのは周知の事実。彼の楽曲でどれが一番好きかと言われれば、やはり有名な「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」だと答えるでしょう。視聴はこちらでどうぞ。(「趣味道楽DTM - DTMによる楽曲のmp3試聴サイト」内『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』視聴ページ

【アイネ・クライネ・ナハトムジーク(Eine kleine Nachtmusik、小夜曲)はヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのセレナーデト長調 K.525の愛称で、彼の作曲した曲のなかでも非常に有名な曲の一つ。旧全集ではセレナード第13番とされた。

ドイツ語でEineは女性形の不定冠詞、kleineは「小さな」の意の形容詞kleinの女性形、Nachtmusikは、Nacht(夜)+Musik(音楽)の合成名詞で、「夜の曲」という意味である。日本語では「小夜曲」と訳される。】(「出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

この「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」が、一体誰のために書かれたものなのか、どういうきっかけで書かれたものなのかは知られていないそうです。ただ、わかっているのは、彼がこの曲のできた日付を作品目録に「1787年8月10日」と書き入れていることだけだということです。

彼にはヴァイオリニストの親友がいたそうです。名前はトーマス・リンレイ、イギリス人。しかし、リンレイは事故死をしてしまい、モーツァルトは大きなショックを受けたそうです。その他でも彼は人間関係においてあまり恵まれているとは言えないように思えます。家族間でもそれほど親子の愛情があったとは言えないようですし。
彼は神童と言われ、多くの人々にもてはやされたのでしょうが、その才能を妬んだ者たちもいたことは確かですし、才能があること、世間の注目を浴びることが幸せに繋がるのかどうかを考えさせる生涯だったと思います。

今夜は、お茶など飲みながら、彼の「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」を聴きながら静かに過ごそうと思います。皆さんも如何ですか?
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優しい人は一人で良いのです
楽観も絶望も只の逃げだ、優しさと戦えという言葉を読みました。

私は優しくないと何時も言ってきました。世界の人々が全て優しい人間になれば、確かに楽園となり全ての人間が幸福に暮らせるのでしょうが、その楽園は未来永劫同じでなければならなくなるでしょう。成長も止まり、強さも失われ、自分たちは何の為に生きているのか目的も持たずに、ただ息をするだけの人形となって命の終焉が来るのを待つだけになってしまうように私には思えます。

成長とは、不完全な自分が完全になるための軌跡ですよね。そして、強さも弱さがなければ存在は無くなるはずです。そんな事はわざわざ私が言わなくても皆さんはご存知でしょう。
全ての人々が優しければそれはもう優しいとは言えなくなります。優しくない人が居るから優しくなりたいと努力するわけです。最初から優しければ優しくなる為の努力もしません。

世界が全て優しくなるとすると、様々な矛盾が起きる。

私を強くなるように育ててくれた存在は、私に対して優しくはありませんでした。優しさで強くなれる方もいるでしょうが、私のように優しさでは強くなれない方も必ず居る筈です。ですが、そんな私にもたった一人無限の優しさで持って接してくれる人もいるのです。

一人で良いです。

私はたった一人だけでいいと思っています。たった一人が優しくしてくれれば、私は強くなれると思います。たくさん居る必要は無いのです。勿論、それは私に限りですが。

私はそういう考えです。
CANNON
彼女の裏日記で流れるその曲は君が作ったもの。
君と疎遠になっていたとしても、他の者が作ったものではなく君が作ったものを流してくれているのが嬉しいね。

たとえ誰が彼女を非難しようが、彼女は君にとって大切な友人だ。彼女の綴る短い言葉が何よりも好きなんだね。私もだよ。私も好きなんだ。

たとえ誰が彼女を罵倒しようが、君と私だけは最後まで彼女の味方で居よう。君と私のこの想いが伝わることを祈りつつ、何時までもその曲を聴いていたい。

精一杯今を愛そうとしている彼女、精一杯今を生きようとしている君、私は君達が大好きだ。何度でも言うよ。色褪せるものか。何度でも言い続けるよ。好きだ、と。

君よ。大切な君よ。
一日が始まる。今日も頑張ろう。
一緒に頑張ろうね。
新しく作る
其れでは彼女のMailも貴方に勇気を与えているのか?
そうであって欲しいと私は願う。
例え貴方の反応が得られないとしても、彼女は信じているだろうから。
貴方に一片の勇気を与えていると。
貴方に励ましを与えていると。

貴方に生きる力を貰った彼女は、貴方に何を返せるかと考えているのだ。

其れは今を一生懸命に生きる事。
そして、笑顔を忘れずに頑張って生きる事。

彼女は頑張っているよ。
本当に頑張っているよ。
貴方という希望と夢を胸に抱いて日々を彼女なりに生きている。

貴方の存在、貴方の言動は無駄なんかじゃない。
彼女が言う通り、貴方が貴方で無くなったとしても、貴方に背中を押して貰った記憶は決して忘れない。
忘れない限り、彼女は貴方の魂を傍に感じて、自分の天寿を全うするだろう。

私からも有難うを。
彼女の支えになってくれて有難う。
私にしか書けない物とは何だろう?
「明けぬ夜の夢」のののかさんが「バカはバカなりに」というエントリで、情報発信することの意味を考えていると書かれていました。
ののかさんはエントリを上げるのが苦しくなっていたと言われています。それを読んで私もエントリを書くモチベーションが下がってきていたなと思い出しました。

彼女は言います。

「いろんなブログを読んでいると、自分がいかに物知らずなのかということを思い知らされてしまう。文章を書くのも、上手い訳じゃない。何か有効な情報を発信出来るわけでもない。」

彼女はご自分の書いているものが誰かから「不幸な話しか書いていない」と思われているかもしれないというようなことを書かれていますが、確かにそう思う者もいることでしょう。
が、しかし、不幸な話を書くことは悪い事ではないですよね。人はよく「不快になる物は書くな」と言いますが、その不快の感じ方は人それぞれですし、私は不快な物を書く事がそれほど悪い事ではないと思っているのですよ。
奇麗事ばかり書かれている物しか接しないとすれば、それはそれで幸せでしょうが、其れは世界が奇麗事だけで成り立っているという事が前提でなければならないと私は考えます。
ですが、この世界は不快な物も厳然として存在しているわけです。
奇麗事にしか慣れていない者はその不快な物で立ち直れなくなるほどのダメージを受けてしまうかもしれないのです。
矢張り日頃から慣れて置く事も必要なのではないでしょうか。

そして、彼女のような生い立ちの人間も居るのだという事を知る事は、其れを知らない人間にとっては有意義な事だと思うのです。
しかし、其れだけではありません。有意義とか有意義じゃないとか、そういう事を抜きにしても、一人でも彼女が書いている物を心待ちにしている方がいるという事が大事な事なのではないでしょうか。少なくとも、私は彼女の書く物を心待ちにしている者の一人なのですから。

彼女は彼女なりに頑張っているのです。
その頑張りを見ていると、私も頑張らねばと思うのです。
勇気をもらえるのです。
心の支えになるのです。

こう言ってしまう事はもしかしたら彼女に失礼なのかもしれませんが、それでも私は言いたいのです。あなたが其処に居てくれて有難う、と。
私には、彼女だけでなく、その言葉を捧げたい人が他にもいます。
私の背中をそっと押してくださるその人にも、有難うと。
その方は私と直接の知り合いではないのですが、私が勝手にその方から勇気を頂いてるのですね。
その方も己の信念を信じて頑張っている。自分のその姿を見て、君達も頑張りたまえと、そう言っているように私には思えるのですね。

ののかさんは「バカはバカなりに」とタイトルを書かれていますが、この私も何も知らぬ馬鹿者であります。一生懸命、賢そうな文章を綴ろうとしていますが、私の本質はただの馬鹿なのです。見抜く能力のある方なら、私が如何に愚かであるかを知っているでしょう。
ですが、私も書きたい事を書きたいと思い続けているのです。この私にしか書けない物を書けないだろうかと、其れは何だろうかと、そう思いつつ。

ですから、此れからも私は気負いなく自分なりにエントリを書いていこうと思います。

  

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