Photo: 「無敵の心身」
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
恋人より愛人より良いもの
君よ。
私の大切な君よ。
彼のこの言葉が君に届きますように。

「愛されなかった人は、愛されない悲しさを知るとともに、愛される喜びを誰よりも深く知っている。」(「魂のカスケード つぶやき」より)

そうだね。
私達は知っているはずだ。
愛されないことも愛されることもそのどちらも。
私達は人より何倍もの愛されない気持ちも愛される気持ちも知っているはずなんだよ。
其れにこうやって気付かせてくれるのも友達なのだと。

君よ。
私の大切な君よ。
君の泣く姿が見えるようだ。
私もだよ。
友達は良いものだね。
恋人より愛人より友達が一番だ。
そう思わないか?
スポンサーサイト
世界があるから私が居る、私が居るから世界が在る
友人であるやまめさんの「新・柏原日記 砂礫王国」を読みました。

私のこの場所はコメント欄もトラックバックも受け付けるようにしてありますが、コメントもトラックバックもされる事がほとんどありません。
時々、私の下らない呟きに仲の良い知り合いが痛烈な一言を残していきますが、それも他人が見たら「何だコイツは」と思われるくらいであって、私自身はその人に何を言われようが痛くも痒くもない訳です。
ですが、この私も傷付く事はあるわけです。書き込みをしていた場所の管理人を傷付けているとは気付かずに書き込みをし続け、更に私の書いた記事でその相手に追い討ちをかけるような行為に及んでしまっていた事。それらは、私が馬鹿であった為に引き起こされたものであり、私自身が己を傷付ける結果になってしまったわけです。

そんな私は人格者では有り得ません。

そして、やまめさんが「新・柏原日記 誰かにとっての私の価値」で書いているように、人格者ではない私も「私の価値は私が一番よく知っている!」とは思っていませんし、「誰かにとっての私の価値」も今は悩んではいませんね。昔は自分の価値を他者に見出そうと必死になっていたものでしたが、やっとの事でそういう想いからは抜け出たようです。
この場所がどのように閑散としていても、自然体でこうやって書きたい時に書く事は気持ちがいいと思っています。
私の大切な友人も好きな事を好きなだけ書いているようですが、昔のように彼女を祭り上げて彼女の自尊心を擽る人もいなくなっているようです。彼女も今は伸び伸びと楽しく書きたい事を書いているようです。

ですが、やまめさんが仰る通りで、他人の目は多少でも気にしないといけない事だとも思っています。私や私の大切な友人は以前は他人の目をとても気にし過ぎていました。しかし、その気にし過ぎは何も良い結果は齎しはしませんでした。ですから、やまめさんのこの言葉には深く頷きました。

「私の世界は、私とその外の世界との関わり合いの中にあるから。」

私もそう思います。こんな私でも私なりの関わり方をしているつもりです。わざわざどういう関わり方かは言いませんが、私たちは矢張り独りではないのだなと痛感しているのです。

世界があるから私が居る、私が居るから世界が在る、そんな感じでしょうか。
閉鎖空間だが閉鎖は有り得ない
「他人の不幸は蜜の味 ブログを始めた方へ(アクセスとコメントの事)」という記事を読みました。
これは、私が記事で取り上げたゆがんだはしごさんのブログに寄せられたトラックバックで見つけた記事なのですが、書かれている事に興味を持ったので感じた事を書いてみます。

私も他人のブログにコメントを残す事は今はほとんどありません。以前は積極的ではなかったとはいえ、幾つかのブログには定期的にコメントを書き込みに行っていました。その内の一つは閉鎖されたぶんだばさんという方のブログが定期的にコメントを書き込む場所でしたし、他にも何人か掲示板やブログに書き込みに行っていました。ですが、今は精神的に書き込みが出来ない状態なのであります。其れは、私が書き込んだ事で相手を傷付けてしまった事があったので、今は及び腰になっているといった感じでしょうか。
恐らく、此れからも何処かに書き込みをする事もないかと思います。

私はアクセスを上げるつもりもないし、たまたま検索で此処に辿り着いて下さった方が気に入って下さり、それで読み続けてくれたらいいと今は思っています。勿論、コメントは書き込みたければ書き込んで頂いて構いませんし、書き込みたくないのならそれでもいいと思っています。トラックバックに関しても同じです。
私がトラックバックを送らないのは、あまり多くの方に来てもらわなくてもいいと思っているから送らないだけであります。初期の頃は、ぶんだばさんには送っていましたが、彼女がいなくなってしまったので、送ってまで誰かに読んでもらわなくてもいいかなあと今は思っています。

ですから、私の場合は相手にコメントを書き込まない事がブログを続けて行くコツになっていますね。勿論、これは私だけのコツなのですが。

LSTYさんの仰る通り「ブログにおける「つながり」は、自分から作る物」とか「アクセス数・コメント数はブログを続ける「気持ち」に強く影響する」と言うのも最もな事だとは思いつつも、私はそういう自分から作る繋がりは沢山だと今は思っていますし、以前、愛・蔵太さんに私のブログをリンクして頂いた時などはかなりのアクセス数があり、暫く落ち着くまで記事上げを自粛した事もありましたね。

私は何も目新しく面白い記事を書いているわけではありません。ウラン関係では無知な自分を披露してしまって少々へこんでしまったものでしたが、結局は私の本質は馬鹿なのですから気にせず間違った事だったとしても自分なりに正直な気持ちを書いていこうと今は思っています。
そして、そこで「間違っている」と指摘してもらえれば、それについては考えも改めますし、どうしても受け入れられない意見だったとしたらきちんと私は「こう思うので」と書いていこうかなと思っております。

という事で、私のブログはLSTYさんの言葉を借りるなら「読者をじっと待ち続けている閉鎖率の高いブログ」という事になりますが、見せて見せましょう、私のブログは閉鎖はない、と。私のこの場所は、閉鎖空間ではありますが、閉鎖は有り得ません。そういう信念の元続けている場所ですから。
永遠に呪われるがいい
「heartbreaking.:山形一家3人殺傷事件」というエントリを読みました。
このエントリを書いたゆがんだはしごさんは男性のようですが、どうやら身内の男性、恐らく父親から性的虐待を受けていたらしいです。このエントリだけを読んでの印象なのでもし間違っていたら申し訳ありません。(追記/ゆがんだはしごさんのコメントを読んだのですが、どうやら父親ではなかったようです。此処で謝罪し、追記として訂正させて頂きます。申し訳ありませんでした。)
エントリの内容は、山形で起きた殺傷事件の加害者が身内から性的ないじめを受けていた事を取り上げて加害者を擁護するような意見が書かれていました。

客観的に見れば、どのような理由があろうとも殺人は罪でしかないといったところなのですが、例えば自身が同じような境遇であったならどうだろうかと思うと、もしかしたら加害者と同じような行動を取ってしまうかもしれません。ですが、同じような境遇だったからといっても全ての人間が自分を苦しめた相手を殺めるかといえばそうでもないわけです。それはもう一人一人考え方も行動も違うという事で「これが正しいのだ」とは決め付ける事はできません。
それよりも私が一番気になったのは、ゆがんだはしごさんが書かれていたこの言葉です。

「性的被害を受けた者が望む事。それは、加害者の死 以外に有り得ない。どんなに更正しても駄目です。三つ子の魂百まで。人間の本質は、そんなに簡単には変わらないからです。」

私の大切な友人も小学生の頃に未遂でしたが性的な被害に遭いました。彼女が小学生の時は女子のほとんどがスカートの下にブルマを穿いていたそうなのですが、高校生に襲われた後、自宅近所を歩いていた所、傍を通りかかったある男子高校生が一緒に歩いていた人に「それがブルマなんか穿いてたんだぜ」と話しかけているのが耳に入ったそうです。それを聞いた彼女は縮み上がるほどの恐怖を覚えたそうです。彼女は事件当時に長い髪のおさげにしていたのですが、もし相手の高校生があの時の少女だと気付いたらどんな事をされるか分らないと思い、中学に上がる前に髪を短く切り、制服以外の時はスカートを穿くこともしなくなったと言います。
その震え上がる言葉を聞いた時の彼女の姿は、事件当時と全く違う姿をしていたので、もしあの時の男がこの高校生なら気付く事もなかったとは思うと彼女は言っていました。

彼女も今でも相手の男を心から憎んでいます。死ぬまで許さないと思っているそうです。
ですが、彼女はそんな性被害に遭いかけていても性に対する興味は普通の人とは違っていました。同じように性被害に遭った知り合いが他にもいますが、その人は巷に溢れる性産業に対しても憎悪を向けるようになり、普通に男女が愛し合う行為としてならまだ受け入れられても、例えばそれが合意の上のプレイであったとしても強姦物とか同性愛物とか、異常な行為に対して極度の嫌悪感を持つようになっていったのですね。ですが、彼女だけは違っていたのです。寧ろ、逆に強姦物でないと欲情しなくなってしまったほどなのです。

これは如何いう事なのでしょうか。彼女も強姦されかかった者として、普通ならば嫌悪して然るべきだと思うのですが、逆に異常なほどに興味を持つようになってしまったわけです。それは彼女の事件が未遂に終わったからだったのでしょうか。もし彼女も未遂ではなく強姦されてしまっていたら、その様なものに興味など持てずに嫌悪したのでしょうか。それは分りませんが、私はそうではないと思っています。これも推論でしかないのですが、恐らく、強姦されてしまった人の中には嫌悪ではなく興味の方にベクトルが向いてしまった人もいないわけじゃないのではないかと私は思っています。

何にせよ、私の友人やゆがんだはしごさんのような人間が一人でも減って欲しいと思います。大切な友人を苦しめる人間を私も許す事は出来ません。彼女の痛みは私の痛みでもあるのですから。
彼女を襲った男の身の上に、永遠に呪いがかかることを私は強く望みます。
強過ぎる正義感
相手を激しく憎むという気持ちをこの私でも持った事があります。友人は私にはそういう感情は似合わないと言ってくれましたが、私も人間です、誰かを憎む気持ちはどうしたって出てきますし、私自身も誰かから憎まれる事もありました。

過去に知り合った人の中には、互いに傷付け合ってもどうしても忘れる事の出来ぬ相手もいます。
ただ、相手はどうか分りませんが、私自身はどんなに憎んでも相手が死んでくれればいいのにとは思いません。
私の大切な友人も現在憎んでいる人間がいると言っていました。それはネットでの知り合いではなく、身近な人間なのだそうですが。誰かは私は知っているのですが、勿論ここでも言えない人物であります。
そして、彼女はどうしようもない闇の心に支配される事があると言います。
彼女は子供の頃から正義感が強い人であったので、ごく最近まではそんな気持ちは絶対に持ってはいけない、持ってしまったら自分は地獄に落ちてしまう、死んでからとても苦しまなくてはならなくなると本気で信じていたようです。
ですが、ネットで知り合った人たちの考えや思いに触れるようになり、そのあまりにも強すぎる正義感が一番悪いのだと気付いたようです。しかし、長年持ち続けたガチガチの正義感から逃れる事はなかなか出来ないようで、彼女の舅が死んでしまった時に「自分のせいなのだ」と激しく自分を責めるようになってしまい、それで半分心の病に陥った事もあります。

そして、今またしても、私は恐れている事があるのです。
彼女は、その憎んでいる相手に本気で死んで欲しいと思っているようなのですよ。
確かに死んで欲しいという気持ちを押し込めてしまうのも精神衛生上良くないとは思うのです。あからさまに言うのは良くないでしょうが、私のようなごく親しい友に苦しい気持ちを打ち明けて、それで前に進めるのならいいと思います。ですが、もし、ここでその相手が何らかの原因で死んでしまったら?
また彼女は自分のせいだと激しく責めてしまうでしょう。彼女の中に残っている正義感のせいで。
私は正義感を否定するつもりはないのです。ですが、こんなふうに自滅をしてしまうような正義感であるなら持たない方が人間は幸せなのではないかとそんな風に思ってしまうのですね。

正義感、それは諸刃の剣なのです。使い方を間違えれば悪い凶器にもなりうるものです。私の大切な友だけでなく、他の方も使い方を間違えないで欲しいと私は思います。
平凡でも非凡でも悩みは同じ
「弁償するとき目が光る サーティーン あの頃欲しかった愛のこと」というエントリを読みました。

yukiさんという方はとても興味深いエントリを書かれる方だなあと思い幾つか読ませてもらったのですが、このエントリで書かれている事を読んで、私の大切な友人の話を思い出したものでした。
このエントリでは見た映画について書かれているわけですが、書かれている主人公の少女と私の友人の少女の頃の話とが状況は違うのに何故か似ているという錯覚を起こしてしまったのです。

yukiさんは主人公の少女を「平凡」と言っているのですが、私の友人は少なからず平凡というわけではありませんでした。いえ、別に芸能界に入ったとかオリンピックの選手になったとか、そういう非凡とは違うので、そういう事で言うならば友人も平凡だったのでしょうが、親もいい親であり、友達にも恵まれ、学校の教師の覚えもよく、勉学もそれなりに出来、将来性のある才能も持ち、何よりも容姿が良いと自他とも認めるものだったという点での非凡さだったのですが。
それでも彼女は自分に自信の持てなかった人間であり、非凡な人間になりたいと切望していたのです。

何かに恵まれていようが恵まれていなかろうが、yukiさんの言うように少女というものは愚かな馬鹿者なのですね。そして、私の友人は未だその愚かしい少女性から抜け出せずにいるわけです。
yukiさんも最後に「わたしもかつて痛かったから。凄絶に平凡で凄絶に痛かったから。そして今でもきっとそうだし、これからも同様に痛いから。ただその痛さと凡庸に慣れてしまっただけだから。」と書いているように、抜け出せずにいるわけです。

私の友人は何時まで経っても慣れないようですよ。ただ、今は痛いと感じても己の口からは言わなくなったのですが。親しい者に言うだけに留めているようなのです。
彼女はyukiさんのようにそういった思春期少女映画というものが好きではなかったようなのでそういった映画は少女期に全く見ていなかったそうです。あの時代に彼女がそういった映画を見ていたら、どうなったでしょうかね。私はそれを知りたいと思いました。しかし、現在それらを彼女が見たとしても、あの頃の彼女の反応ではないわけですから、それが少々残念だなと思いました。

友人は愛する事を知らず、そして、未だに少女性から抜け出せず、恐らく死ぬまで彼女は少女期独特の痛みを抱えて声にならない叫び声を上げて生き続けるのでしょう。私は其れをずっと見つめていくわけです。私が代わってあげられたらと思うのですが、残念ながら代わってあげる事は出来ません。彼女が痛みを訴える時、私ならきっとその痛みを痛みとも感じることはないと思うのですが。私はただ彼女を強く抱き締めてあげる事しか出来ません。私の愛はそういう愛です。
激しく憎む
今までにこんなに人を憎んだ事は無い。
私は大切な友のように此処までの情熱は持っていないと思っていた。

私は感情の無い人間だとそう思っていた。

だが、そうか。
私も矢張り人の子なのだな。

はっきり言おう。
私はその人を心の底から憎むよ。
もう二度と決してその人を私は許しはしない。
絶対に。
そして、此れより私はこの季節、桜を見てはその憎しみを思い起こすだろう。

私は忘れない。
大切な人を泣かせる者を。
決して許しはしない。
決して。

  

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。