Photo: 「無敵の心身」
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矢張り人間も動物の仲間なのか
「極東ブログ 奈良母子焼死事件の印象」を読みました。と同時に、はてなブックマークに寄せられていたコメントで「男子は父を超えなくちゃ大人になれない」という言葉を読み、以前私の友人が話してくれた事を思い出しました。

友人にも中学生の息子さんがいます。そして、その父親に頭が上がらないらしいという事です。親を親とも思わない馬鹿息子という訳ではなく、恐らく友人の息子さんも自分の父親を尊敬しているのでしょう。母親である友人が何を言っても言う事を聞かないのに、父親の言う事はよく聞くそうですから。ですが、幼い頃よりは最近ではさすがに不平不満を言いつつということらしいのですが。
友人のご主人は「男は父親を超えなくてはならないからな。それくらいの心意気が欲しいものだ」と言っているそうです。

動物世界では親を殺してという話も聞いた事があります。その手の話題には疎いのでどういった事なのか私には分かりませんが、子供は何時までも親の保護を受けるものではないし、何れは一人立ちしていかなければなりません。ですから、親の言い成りになっているではなく、親に逆らう事も無ければならないのでしょうが、逆らい方が親を亡き者にするという事であれば、それは矢張り人間も動物の仲間だからという事なのでしょうか。

何れにせよ、親を殺してしまった少年は、何時か心から後悔する時がくるでしょうね。それとも、そんな後悔などしない人生をこれから歩んでいくのでしょうか。
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絶対的な伝達方法はない
一昨日の事なのですが、友人がとあるスーパーで買い物をした際に支払う金額1940円丁度をレジの店員に出した所、店員は「1940円お預かり致します」と言ったそうです。
友人は「それってなんかおかしくない?」と言っていました。
彼女の言うのには、預かるという事は返す事を前提にして言っている言葉である、だからこの場合の正しい日本語は「1940円丁度頂きます」と言うべきだろうと言うのです。「だったら何? 幾らかお釣りを返してくれるの? いったい幾ら返してくれるの? なんてことを言いたくなったよ」と言っていました。(笑)

確かにそう言われてみれば「預かる」という言葉を使うからにはお釣りを幾らか返さなくてはならないでしょうね。これが2000円であったなら「2000円お預かり致します」と言ってお釣りを出すのは何の不思議もありませんし。
ですが、恐らくその店員もその様な事など気付かずに使った言葉なのでしょう。私も他人の事は言えません。今までにその様な言葉を聞いた事があったかもしれませんが、全く覚えがないので、私も聞いても気付かなかったのかもしれないなと思いました。今回、その様に友人から話を聞き「成る程」と気付いたのですから、何とも情けない事です。

ただ、意味は通じているのですね。お金を頂いたと店員は相手に伝えているわけであり、客側も渡したという認識があるという事で、互いに意味は通じ合っているのです、日本語が間違った使い方をされていても。正しい日本語で語られたものであっても、相手にこちらの意味が通じない場合も多々あるというのに、間違った日本語であっても意味は通じる。それに気付いた時に、正しい日本語が必ずしも絶対的な伝達方法という訳ではないのだなと思うに至りました。

言葉とは本当に難しいものなのですね。
ありがとう
「忘れるまで好きでいたらいい」

まるで彼が言ったかのような其の言葉を大事に受け止めた。

「忘れるまで好きでいたらいい」

とても単純な言葉だ。とても。だが、其の単純で当たり前な言葉が、心に深く染み込むのは何故だろう。彼女にも伝えたい。其の言葉を。

「忘れるまで好きでいたらいい」

何度も何度も心で繰り返し呟き、焦らずに時間が解決してくれるのを祈りたい。そして、其の言葉をくれた人に感謝の気持ちを捧げたい。

「ありがとう」と。
其の人へ
私からも「おめでとう」を。
私の大切な友人からも「おめでとう」をあなたへ。
触るな
見捨てるよ
君は一人で立てるって言ったよね
だから見捨てる

誰が誰と寄り添おうと
君は昔から一人だったじゃないか
あの子もあの人を選んだ
三人という数字は
昔から君のタブーだったはず

悲しくないよ
君は悲しくない
君は孤独
君は立てる
最初からそうだった

昔から
誰も君の心は理解できなかった
今もそうだよね
そう今もそう

誰も君の心は理解できない
それは
君が誰をも理解してないから

もうわかっているはず

君は何もわかってないんだ

もう帰りなよ
誰も君のことなど気にかけてやしない
誰もかれも君に関心なんかないんだ

だから
もうやめなよ


キミハミステラレタンダカラ


ボクモミステラレタンダカラ


モウヤミニキエルシカナインダカラ


眠ってしまおう
君と私で

眠ってしまえば
もう悲しむこともない
もう誰も君を悲しませるものはない

誰も
君のこと気にかけなくなるから

モウサワルナ

サワラナイデ



アレガメザメルカラ


だから触るな
心穏やかに最期の時を迎えたい
ふらりとお邪魔をした場所で「happy hunting ground 過去の亡霊に物悲しさを覚える」というエントリを読みました。
「過去の亡霊」というキーワードで興味を抱いたエントリなのですが、書かれている事は私の考えていた物ではありませんでした。どういった内容を想像していたかどうかは此処では言いませんが、暫く私も過去に心が引き戻されていたと言っておきましょうか。

大人は誰も分ってはくれないと、私も昔は思っていたのかどうか、自分の過去を振り返ってみたのですが、残念ながらそういう気持ちを抱いた事がありません。尾崎豊というアーティストの歌にも私は共感した事もないので、私はこの記事を書かれた茅須まいるさんのお気持ちは理解は出来ないかもしれないと思っております。

若者が年を取っていく事は如何したって避け難い事であります。そして、大多数の者が、何れは自分が忌み嫌っていた頭の固い大人になっていくものだと私は思うのです。
勿論、中には若い頃の理想を忘れないままに大人になっていく者もいることでしょう。そういった方が少ないとは言いませんし、私はそういった方々を否定するつもりはないのですが、頭の固くなっていく事が其れほど悪い亊だとは私は思えないのですね。
確かに、かつての仲間がそういった頭の固い大人になり「今頃の若い者は」と言い出すのを見るのは辛いでしょうが、そういう風に変わっていく者はその人にとっては幸せなのだと思います。それがいいか悪いかは別として。
変われなかった子供の心を忘れない人は、そんな仲間を見て不幸せではあるのでしょうが、自分は自分の道を、変わった仲間はその人の道を、互いが互いの道を歩いていけばいいのではないでしょうか。その上で、互いの道が違っていても一緒に並んで歩けるのならば交わらなくても平行線で歩けばいいし、如何しても並んで歩けないというのなら離れてしまうしかないと思います。

そして、自分とは違う道を歩む仲間の姿を茅須さんは「納得するしかない」と言っているのですが、「自分たちの世界に閉じこもってそれ以上の発展を拒んでいることに他ならない。できごとを懐かしむのはかまわないけど、そのことで今を生きる力を得るのではなく、いまを否定してしまうのなら、そんな思い出話はしたくない。」という言葉が出てきています。それは、どうしても矢張り納得は出来かねると思っているのではないでしょうか。
茅須さんは、そういった閉じこもってしまった人たちが自分たちの過去の輝きを思い出して欲しいというような事を望んでいるようですが、私なら思い出さない方がいいかもしれないと思います。

本当の幸せは、思い出さずにそのままこの世界から去っていく亊なのかもしれません。勿論、此れもその変わってしまった人達にとっての幸せの形がそうであると私が思うだけでありますから、それ以外の幸せもあるという事を分っていて言うのです。そして、私も思い出してしまう人間でもあるので、思い出す事の大切さと思い出さぬ亊の幸せの狭間で苦しむ事もあるという事なのであります。

願わくは、心穏やかに最期の時を迎えたい。そう私は願っております。
友達
私の大切な友人の一人であるやちさんが書かれたこの日記「Reincarnation 主婦」「Reincarnation 台詞」をもう一人の大切な友、家事が大嫌いな君に送りたい。

そして、君と私二人にとってやちさんのこの日記「Reincarnation 定住」は何よりの力となる。

君よ。
私の大切な君よ。
二人で一緒に頑張ろう。
私達にはこんなに素晴らしい友達がいるのだから。
明日も頑張ろうね。

  

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