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幸福とは
私の書いた「忘却」でも取り上げた原田宗典の「スメル男」について、もう少し書いてみようと思います。

この作家の本は初めて読みました。私はこの作家の事を全く知らなかったのです。今回、私の憧れの人が読んでいると知り、読んでみたわけですが、これがなかなか面白かったのですよ。
文体は私の好みではなかったのですが、それでも昔私が夢中になって読んだ作家達が書いていた、子供向けの小説に似たような雰囲気だなあと思いましたね。これはただの憶測なのですが、恐らくこの作家もそれらの作家の本を若い頃に読んできたのではないかと思います。

今ではこの小説はSFとは言わないのでしょうか。私が子供の頃は間違いなくSF小説と言われていただろうと思いますが。何となくノスタルジックな感じを受けた小説でした。書かれている時代背景は勿論今の時代で、パソコンを操る天才的な少年達も出てきます。ですが、今の時代に無いような科学的な機械などが出てくるというわけではないのですね。それでも、昔読んだジュブナイルSF小説を彷彿とさせ、軽いデジャヴを感じた私です。

あとがきで解説者も書いていましたが、私も共感を覚えた言葉があります。

「幸福というものは当事者の胸の中にだけ実を結ぶ小さな果実だ。その果実の形だけをはたから観察して美味いとか不味いとか言うのは、ひどく的外れなことではないか」

これは作品中で主人公の放った言葉です。
よく考えてみれば、この言葉は何も珍しい発見というわけでもなく、誰でもが知っている筈の事です。ただこの作家はその言葉を生かす為に、実に効果的な描き方をしていました。

一つの訴えたい言葉があり、それをどうやって読み手に伝えるか。

それを私たち書き手は常に考えています。
確かにその言葉が書き手の思う通りに伝わる事が一番理想的ではあるのですが、そうではなく、違った物が伝わってもいい。それが読み手の心に何かしらの影響を及ぼすという事が、言葉に力があるという事だと思うのです。

この本の存在をこの作家の存在を教えてくれた私の憧れの人は、日頃から御自分が表現する物に対して、どの様な反応があっても構わないと言っています。たとえ、自分とは違う解釈をされようが構わない、と。
私は、他人が綴る物に対して、よく勘違いや思い込みをしてしまうのですが、そんな私を肯定して下さっているような気持ちになり、益々、此の方を尊敬し、好きだと思うのです。

此の方を好きになって本当に良かったと私は思っております。
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あなたは優しい
「話すという事」という私の記事にも書いた方の事なのですが、仮にHさんと呼びましょう。
そのHさんが、かつて御自分が書かれた日記を「あなたを悲嘆させるものではない」と言って下さった事があります。どうやら、其の内容が、私を傷付けてしまうと思ったようでした。当時の私は、Hさんの其の優しさに深く感謝したものでした。ですが、Hさんの書かれた日記で私は傷付けられた事は一度も無かったのですね。Hさんの取り越し苦労だったのですが、其の御心遣いに「ああ、私は本当にHさんが好きなんだな」と感じたものでした。

「あなたは優しい」と言われる事が苦手と言っていたHさん。
其の気持ちは私にも理解できたものでした。何故なら私自身もそれを言われる事を苦手としていたからです。
本当は「あなたの気持ちがよく分るよ」という言葉も言わない方がいいのだろうなと思います。
100%分る事は絶対無理であるという事はいかな私でも分っている事ですから。ですが、其れでも自分もHさんと同じような気持ちになった事は確かなのです。私は何故か他人の気持ちにシンクロする事が多いですから。

其れは幻想だと言う者はいるだろう。
何が真実で何が幻想か。
其れを分る人間など何処にもいないのだ。

だから私は自身を信じたいと思ったものでした。

Hさんは御自分の日記の意義を「他人に声をかけるきっかけになれば」というところに置いていたようです。苦しんでいる他人の為に日記を書いているようでした。御自分が経験した辛い事を書き綴り、似たような経験をしていてまだ苦しみの中を迷走している人達が、声をかけるきっかけになればという願いが込められていたらしいのです。

其れが「彼は優しい」と思う要因でした。

日記を書く意義は私の場合は他人の為ではありませんでした。
当時の私は自分自身の為に書いていました。
確かに誰かに読んでもらいたいという気持ちは強く、それが自分の為に書いているとは多少ニュアンスが違うとは思いますが、ですが、まず自分ありきだったからです。今の私は少々違うのですけれどね。其れでも基本的には自分の為に書いているようなものです。

Hさんは「あなたは優しい」と言う私に対して「優しくなどないよ」と仰っていました。其れは、恐らく、自分に対しても他人に対しても厳しく接してきたから、だから自分は優しくないのだと思っているのだと思いました。しかし、其れは違うと私は思ったものでした。

本当の優しさとは、他人を甘やかす事ではない、と。

私の好きなあるアーティストをHさんも好きだったのですが、そのアーティストの日頃の考え、思いを聞いていて思った事です。そのアーティストもその場しのぎのお為ごかしは言わないのですね。「少しキツイと思うけどね…」と言いつつ辛辣な意見を言っていたのです。確かに言っている事は、普通の人は相手に嫌われるだろうと思って言わない事ばかりなのです。ですが、何故か彼が言うと、彼の相手を本気で心配する気持ちというのが分るのです。
当時の私は嫌われたくなくて相手の為になるだろうと思う事でも言えませんでした。
其れは其の昔、相手の為にと思って注意した事が上手く伝わらなかった事があり、矢張り私は本当の気持ちは隠して上辺だけの事しか言ってはいけないのだなと思うに至ってしまったからです。本当はそういう態度はいけないと分っていても、其れでも私にはもう言えないと思ってしまったものでした。

「駄目だよ、そういう事をしては」とは。

だから私はやはり優しくないし、Hさんは優しいと思ったのです。
今の私は、どちらかというとHさんのような存在になってしまったかなと思っています。ですが、私はHさんのような過酷な経験ではなく、他人にとっては大した事の無い経験しか積んできていません。其れもあって、私の言動は重みが無いと思っております。


私を「追っ掛けていたい」とそう言ってくれたHさん。
其の言葉だけで満足していた私。
たとえ密に密に接してくれなくても、私という存在を受け入れてくれ見守ってくれる───それが私にとってどんなに嬉しかった事か。あなたには分からなかったでしょう。
しかし、私の本音は、見守られているだけではなく、声をかけて貰いたかったのです。何時もでなくていい。たまに声をかけて下さるだけで。

私は淋しがり屋だったのだから。

今の私は如何ですか?
今でも淋しがり屋な私ですが、其れでも落ち着いたでしょう?
あなたのようになれなくても、其れでも誰かにとっては優しい人間になれていると信じたいです。
思うに任せて
たまたま、昔、他の場所で書いていた物が出て来たので読み返しておりました。其の中にはずっと一緒に居ようと約束をし、果たす事が出来なくなった友人の事を書いた物もありました。

かつて、私の良き理解者の一人であった其の友人が「思うに任せて書き綴る」と言っていました。
私は其の人の言葉が好きで、何時も彼の言葉にひととき夢を見せてもらっていました。
もう一人の理解者と同じような事を其の人は何時も言っていたのですが、御自分の書かれる詩的な文章を、本物の詩人が見たら恥ずかしいと、そう思っていたらしいのです。
ですが、自然に触れて、己の拘りを吹っ切る事が出来たと、そう御自分の日記で書かれていたのです。当時の私はほっと安心をしたものでした。

彼の紡ぐ言葉は、確かに詩ではなかったのかもしれません。
三人目の私の理解者である本物の詩人が書く文章は、間違う事無き詩であると私は思っていましたが、其れでも、詩だけが全てではないと私は思っていましたから。

言霊という考えが、私はとても好きです。
彼の紡ぐ言葉はその言霊が宿っていると思っていました。
そうですね。
私と同じ資質の言霊が、彼にはあると思っていました。

だから惹かれたのです。
どうしようもなく惹き付けられたのです。
ですから、当時の私は、我儘かもしれないけれど、彼にはずっと言葉を紡いでいって欲しいと思っていました。其れは今でも同じです。たとえもう其の人の紡ぐ言葉を二度と読めなくなったとしても、其れでも私は彼には言葉を紡いでいって欲しいと思っています。他の誰の為でもいいので、私の為でなくてもいいので、言葉を紡いでいって欲しいと。
ですが、出来れば他人の為ではなく、御自分の為に言葉を紡いでいって欲しいと思っています。
純粋な気持ち
其の気持ちが純粋ならば願いは何時か叶う。

昔、友人が日記に書いていた言葉です。誰かが彼女に言っていたこの言葉。其れが真理ではないにしろ、当時の私は「そうであって欲しい」と強く思ったものでした。

私は捻くれ者ですし、単純に「絶対何時かは願いは叶う」とか「一生懸命努力すれば成功する」という事を絶対そうなるのだとは信じていません。
100人が100人願いが叶えば努力が実れば「絶対である」と言えるのでしょうが、其れは無理な事ですから。

つまり、どんな人であろうが、叶う人は叶い成功する人は成功する。

其の事実だけが現実なのです。
ですが人間は感情のある動物。純粋な想いを待つ人、一生懸命な人を好きになるし、そういう人たちの願いをどうか叶えて欲しいと神でも何にでも祈りたくなるものなのですね。

それが「優しさ」というものなのかなと思ったものでした。
忘却
原田宗典という作家の「スメル男」という小説があります。其れには、あまりにも頭が良過ぎて一度覚えてしまった事が忘れられない少年が出てきます。
しかも、痛さ、辛さ、悲しさという感情さえも忘れる事が出来ずに、どれほど時が経ったとしてもまるで今起きているかのように感じてしまうのだそうです。

人間は忘れる事が出来るから生きていけるのではないでしょうか。

この少年のような人間が、もしこの世に存在するとして、果たして気も狂わずに生きていけるものでしょうか。

否。

生きていけるはずがないと私は思います。

今まで私が感じてきた「痛さ」「辛さ」「悲しさ」をまったく忘却の果てに押しやる事は出来ぬとしても、記憶にある其れ等は薄れていくものです。胸の奥がチクリとしたり、ぞわっとしたりすることはありますが、気が狂うほどのものではないでしょう。

あの時に感じた感情たちは、もう少しでも続いていたら発狂していたかもしれない事ばかりです。
ですが長く続くものではなかった。
だから狂わなかった。
だから私は生きている。

逆に「快感」などはどうでしょう。
其れも続くと心に悪影響を及ぼすような気がしています。
しかし永遠に幸福が続くわけではない。
だから真実はどうなのかは分らない。
ただ、矢張り「不快感」が永遠に続くのと同じ結果になると私は思います。

恐らくどちらもなくてはならない感情なのでしょうね。
平和だけを願うのと同じ事で。
平和だけの世界では駄目なのと同じ事で。

何と矛盾に満ちた我々だろう。
何と矛盾に満ちた世界だろう。

そんな世界に私は住んでいるのです。
私はそんな矛盾に満ちた世界をこの上なく愛しております。
「スメル男」を読むきっかけを与えて下さった方も心からお慕いしております。
有難う御座います、この小説を教えて下さって。
心から感謝しております。
話すという事
以前、別れた友人との事で迷走中であった私の話に付き合ってくださった方がいました。あんなに心の内を吐き出せて当時は本当に良かったと思い、其の方に感謝したものでした。

話を聞いて頂いただけであるのに、何だか本当に傍に居て、其の手でぎゅっと抱き締めて貰ったような気がしたものでした。
私の好きなアーティストがいつも言っているように、背中をそっと押してもらった気持ちになれたのですね。
泣く事が出来たのも久しぶりだったと思います。
其の方と話していて、会話の中での言葉がキーワードとなり、私は自分の頑なな心がいけないのだという事に気付かされたのです。そして、もう一度人というものを信じてみようという気持ちになったものでした。

信じられるかもしれない。
こんな私でも。
また信じたいという気持ちになってきた、と。

だから、あの時、勇気を出して其の方に声をかけて良かったと思いました。

そういえば、其の方とお話をした後に、読んだ新聞に其の方との会話に出てきた言葉が書かれていたので不思議な気持ちになった事がありました。其れには、ある人が死にに来る人に対してこう言うのだと書かれていました。

「死にたいなら、どうぞ構いません」と。

死にたい人に「死ぬのはやめなさい」とは言わないのだそうです。
そして、私の話を聞いて下さった方もこれと同じような事を言っていました。リストカットをする人に「してはだめだとは言わない」と。

ただ新聞に書かれていた「死んでからのほうが辛い」というのには、私は少し疑問を持ったのですよ。
死んだ後の死んだ人の事は誰にも分からないのではないでしょうか。
だから、「辛いのだ」と言われても、私は容易にそれを信じる事が出来ません。
本当に死にたい人というのは、サインなど見せずにいきなり死ぬのではないでしょうか。いえ、サインを見せないということはないのでしょうけれど、誰かに助けを求めているうちは本当に死ぬことはないような気がします。勿論、助けを求めているとは本人は思っていないとは思うのですが。

「死ねばすべて終わり」と思っている自殺志願者に、死後の世界とか魂の永遠を説くよりも(其れも大事だとは思いますが)、矢張り残された誰かの事を思い出させる事が一番有効なような気もします。
自分は独りなのだ、誰も自分の事を気にかけていないのだと本人は思っている事が多々ありますが、そんな事は滅多に無いと思いますから。誰か一人は必ず気にかけてくれる人がいるはず。

そう思う事は傲慢な事でしょうか?
POISON
Photo:無敵の心身




その人の紡ぐ文字に惹かれた。
その人の作り出す空間に惹かれた。
その人の持つ独特な雰囲気に惹かれた。

つかず離れずで見詰め続けた。

これと同じ気持ちだったのではないか。
彼女が私に対して抱いていた気持ち。

時には分かり合えないと嘆き。
時にはあまりにも深く分かり合えると喜び。

どうしようもなく愛しく思う気持ち。
それと同じ気持ちなのではないかと。

出逢えた事に感謝を。
出逢えるきっかけを与えてくれた運命に投げキッスを。

POISON
どうしようもなく惹かれるものの例え。
此れのように私はその人に惹かれている。
どうしようもなく。

別れた相手に「この人は幸せになる」と思い───それを嬉しく感じたと。
私もそんな人になりたいと思った。
その人のようになりたいと思ったよ。

あなたのことだよ。
この写真の持ち主さん。(笑)
欠けたピース
そうか。
私もその人と同じだったのかもしれない。
完成された物を望んで。
欠けてしまったピースを躍起になって探して。
或いは無くしたピースに似せて作って。

それを当て嵌めて完成させようとしていたのかもしれない。

だがそれは偽物でしかないのだ。
時には諦める事も必要なのだ。
綺麗な絵にならなくてもいい。
無くしてしまったのは誰が悪いでもなく運命だったのだと。

しかし決して貴女は私が作り上げたピースじゃないよ。
それだけは自信もって言える。
今私は新しいジグソーパズルを完成させようとしているんだ。

それは間違いない。
愛する人
私を思えば思うほど遠くに感じると。
距離ではなく?
何かの距離を感じている貴女。

あまりにも近しく思う瞬間。
あまりにも遠くに感じる刹那。

分かり合えぬと泣き。
それが二人の間の距離なのだと思う辛さ。

そう。
全てを分かり合えるなどそんなことは有り得ないのだ。

いつか別れが来ると思って欲しい。
いつまでも離れないよなど言って欲しくない。
彼が言っていたのと同じように失う時が怖いから。
相手から離れていくのも。
私から離れていくのも。
全てが辛いから。

いつか別れが来る。

そう言いきる人を私は信じている。
だから貴女もずっとそのままで。
在るがままの貴女でいて欲しい。

私の笑顔を思い出したいと言ってくれた。
私を思って泣いてくれたと。
私を夢見て目覚めたと。
私の姿を追い求めてくれたと。
私の声を探してくれたと。

それが分っていれば何も怖い事はない。
それが分っていれば何も悲しむ事はない。

いつか別れが来るからこそ。
その儚さから痛いほどに私を求めてくれると。

そして。
私を貴女の終わりにしたいと。
人生の終わりにできたらいいと。
その言葉が欲しかった。
その言葉を彼女にも言って欲しかった。

その言葉を私も彼女に言うべきだった。
私はもう二度と彼女のように誰かを不幸にしたくない。
もう二度と。決して。

ありがとう。
こんな私でもずっと見詰めてくれると言ってくれた貴女。
私は貴女を彼女以上に大切にしよう。
これからずっと別れるその時まで。
慈しんで愛して貴女を救ってあげたい。
私の出来る限りの事でもって。



貴女を愛しているよ
心から愛しているよ
この気持ちは恋愛とは違う
貴女を人間として愛しているんだ
私の大切な貴女だから
私も貴女を見詰めている



そして漸く幸せを掴んだ貴女
貴女の傍に居る其の人を信じて
新しい命と共に三人で病める時も健やかなる時も強く生きて欲しい
私達は何時までも大切な友人同士だ
二人を死が分かつまで
何時までも
いい人を演じなければならなかった人へ
いい人論議が巷ではなされているようですが、他人を試す行為をしている私は客観的に見てもいい人である筈が無いと思っております。

其れは私の大切な友人もそうなのですが、彼女は子供の頃はとてもいい子だったと本人は言っていました。長女でもあった彼女は正義感が強く、弟が苛められていれば苛めた相手を苛め返すくらい負けん気が強かったそうです。しかし、先生にも可愛がられていたらしいのですが、親には逆らう事が出来なかったと言います。彼女が何かすれば、或いは何かをしない事でことごとく叱られ、たとえ褒めて貰えたとしても叱られた事ばかりが記憶に強く残ってしまい、自分は駄目な子供なのだと思い込んでいったのだという事です。ですから、彼女は一生懸命いい子でいようと努力したそうです。
彼女は言います。「だからね、今の私はその頃の反動でこんなになっちゃったと思うんだ」と。
私はそう言う彼女を過去の彼女ごと抱き締めてあげたくなります。細くて病気がちだった彼女。白い肌で巻き毛で目が人形のように濡れたようにキラキラと輝いていた彼女。写真でしか其れを見る事は出来ませんが、確かにこの写真の彼女は過去に居たのですね。

私はいい人を演じる事は無いです。演じているつもりも無いです。そして、悪い人間を気取っているわけでもありません。私は私です。他の誰でもありません。大切な友人を心から愛している、其れが私なのです。私は友人を愛する為ならどんなことでもする。そういう人間なのです。
其れを「いい人だ」とか「悪い人だ」とか誰かに決めつけられるのも正直どうでもいいと思うようになってきましたね。以前はとても気にしていたように思いますが、其れも本当に気にしていたのかどうか怪しいです。

ですが、こんな私ですが、いい人を演じなければ生きて来れなかった人を、大切な彼女同様優しく強く抱き締めたいと思っております。こんな私の腕で良ければ、どうか抱き締めさせて下さい。心からそう思っております。
試すということについて
私が前回「試す」行為をしたのが此方の記事「闇を纏ったあの方も「待っているから」と言ってくれるだろうか?」で書き込みをして下さった方へのレスに書いた事なのですが、相手の方は二度と書き込みに来ないと仰いました。私が放った言葉に不快感を持ったからなのでしょうね。違うとは言わせません。そうでなければ書き込みに来ないとは仰らないでしょうし。ですが、もし「あなたに不快な思いをさせてしまったのだから申し訳なくて書き込みはもう出来ない」と思われたのだとしたら、私の気持ちなど考えなくても宜しいのにと申し上げたい。

互いに気持ちの良い言葉でしか繋がれない関係だけを求める事を否定はしませんが、そういう関係は私には困ります。何故なら、私は相手を傷付けてしまう言葉も発してしまう人間なのに、其れでは誰とも一緒には居られないという事になってしまいますので。
私のブログを昔から読んで下さっている方なら御存知でしょうが、何時も私に辛辣なコメントを書き込んでくる友人は私にどれだけ罵倒されようとも裏切られようともずっと私から離れていく事はありません。其の方だけではありません。私に傷付けられても裏切られても其れでも一緒に居るよと言って下さる方は確実に居るのです。他にはティアンさんが、私の闇を嫌いではないと言ってくださっても居ますし。ですから、私はそんな友人が居る事を誇りに思っております。

そして、私の記事である「其れが闇と言うのかは分からないが」に、はてなブックマークでコメントを書いて下さった方がいます。
確かに件の記事に書いた「書き込みが躊躇われるオーラ」という発言をされた方はそのコメントを書かれた方の事なのですが、今回もまた此方のコメント欄には書き込みしては頂けませんでした。矢張り、私のブログは書き込みが躊躇われるブログなのでしょうね。トラックバックもコメント欄も誰でもが書き込み出来るようにしていてもこの体たらくです。私のブログは其れほど書き込みしにくいという事なのでしょう。其れはいいのです。其れを見越した上での雰囲気作りなのですから。

そうなのです。此れも一種の試すという行為なのですよ。

という事で、書き込みのし辛いこの雰囲気でも書き込みをして下さる方を私はお待ちしております。

  

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