Photo: 「無敵の心身」
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何処にも無い
そうだ、何処にも無いんだよ。
あなたの言う世界など何処にも無い。
何処にも無いが、何処かにはあると私は信じている。
出来れば、私の心の中にその世界を作りたいと思っている。
たとえ受け入れられぬ人でさえも愛したいと。
其れを偽善だと言うのなら言え。しない善よりする偽善。私はこの言葉が好きだ。
あなたがゆったり眠れる、そんな世界を望んでいる。
私も少しは優しくなれるかな。
私は冷たいよと言い続けてきたが、矢張り優しい人になりたいから。
淋しがりやの猫を優しく抱きかかえる、そんな人になりたい。

今年も暮れて行く。静かに暮れて行く。
人々の悲しみも優しさも涙も笑顔も引き連れて、来年に繋げる為に、世界はそうやって連綿と続いて行くのだ。

今年、私と出逢ってくれて有難う。
来年、宜しく。
あなたにとって心休まる場所になるよう祈っている。
あなたもずっと其の場所で綴り続けてくれ。
其れがあなたの私の永遠となるのだから。
其れが誰もが愛される世界となるのだから。
私は其れを信じているのだから。

だから、あなただけは消えないで。
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私という人間
今では直接メールでの話はしていないのですが、以前何度か其の方が書かれる日記に関してメールでお話をしていた人がいました。

彼女は私の本質を見抜く人だと当時思ったものです。彼女の日記をずっと見てきて、時に私の心に鋭く突き刺さる事を書いている時もあったからです。
元々彼女に注目した切っ掛けは、メールを彼女に差し上げる前に交流をしていたとある方の日記に、彼女がよくコメントをしていた事で、彼女の日記を読むようになったのでした。
ですが、最初は信用できずに接触はしないでいたのです。今でもそういう傾向はあるのですが、当時の私は特に誰に対しても信用出来ないという目で見ていたので、其の方に対しても同じような目を向けていたのです。ですが、何がそうさせたのか今では覚えていませんが、如何してもお話をしてみたいと思い立ったのです。といっても、元々掲示板を開放していない人でしたので、それもあってメールでしか接触は出来ませんでした。ですが、話していく内に、成る程私と同じ様な道程を歩んで来た者同士の匂いという物を感じたのです。恐らく彼女も此方の事を全面的には信用していなかったと思われるのですが、しかし、それが良かったのかもしれませんね。

彼女とのメール交換は暫くは互いに真意を探り合っているという感じで、多少ぎこちない感じが続いたのですが、結局は今はメール交換も止めてしまいました。あのまま続けていけば、恐らくなかなかに良い関係を築けると思っていたのですが。其れでも、私は今でも彼女の日記は読み続けています。彼女とはある約束をしていまして、何時か必ずその約束を果たそうとは思っているのですが、もしかしたら彼女はそんな約束を交わした事さえも忘れているかもしれません。しかし、たとえ自己満足でしかない約束事であっても、私は必ず果たしたいと思っています。

其の時に思ったことなのですが、全面的に信用する事は、このネット世界では愚か者のする事である、という事。絶対に無防備に信用してはいけないと、ネット世界と現実世界は別物であると、そう思っていなければこの世界を徘徊してはいけないと私は思うに至ったものでした。
勿論、この世界も信用出来るという事が望ましいのですが、望んでいるのと実際に信用するのとをイコールで考えては危険なのだと思うわけであります。余りにも危なっかしい人達が多過ぎますね。
手を差し伸べて上げたい時もあるのですが、其れをして逆に痛い目に遭って来たものでしたので、如何しても私も保身に回ってしまうのです。
ですから、当時、Hさん(メール交換をしていた女性の事ではありません)がご自分の事を投げ打ってでも大切な人達の為に動いているのを、私は尊敬していたのです。私にはとても出来ない事でしたから。今でもHさんは他人の為に尽力していらっしゃる事でしょう。
恐らく、私という人間は、時として偽善者という烙印を押されていると思います。そんな事を思い起こす時に、とても自虐的な気持ちに陥るのですが、其れもまた私という人間という事です。そうですね、其れさえも愛しいと思っているのかもしれません。


そんな人間なのです。私はそんな人間。しかし、だからといって今の私はそう思う事で己を蔑んではいません。此処で在りのままの私を曝け出しているのですからね。其れだけでも進歩したと思っています。


これで逃げ出す事さえしなければ、私は己に誇りさえ感じるでしょう。ええ、逃げ出す事さえしなければね。(苦笑)
信じる事
信じる事について考えてみます。

気にしないようにしたいと思いつつも、誰でもが疑心暗鬼に囚われて誰も彼をも信じられないと叫んでいる人達がいます。其れはこの私自身もそうであります。そうですね。己の本心を隠して人と接していれば、もしや今話しているこの相手も本当は私の事など好きではなく嫌いだと思っているのではと、そんな愚にもつかぬ事を考えてしまうものなのです。勿論、其れは私に限りなのですが。

ここで思い出すのが、私の理解者であったHさんです。

彼も己の裏の顔を自身嫌悪しつつ過ごしてきたようでした。ですが、本心でやっていって良かったと、そう最後に言葉を残して下さいました。言葉を介して心の交流をするのは確かに難しい。ですが、諍いや誤解はあれども、其れ以上の喜びも手にする事が出来ると彼は言ってくれました。

「喜びや悲しみを分かち合う存在同士に」

この言葉は何方かが彼に捧げた言葉だったそうです。其れが誰か、私は知りません。ですが、其の人の綴る言葉の地図が彼のそれからの歩みに力を与える事は確かであり、そして、私も彼が挫けそうになっても一歩一歩進んでいってくれる事を信じられる、そんな気がしたものでした。
彼が誰の言葉をも受け付けられずにいた事。其れを私は知らなかったし、彼の途方も無い程の深さである心の傷も私は知らなかった。しかし、彼も誰かの言葉を受け入れる事が出来るようになったという事、其れは信じられました。私も同じだったからです。私も私を受け入れてくれる人がいるのだと今は信じられるようになったからです。
それは私達が同じ淋しがり屋であるから。真実同じ淋しがり屋であればこの気持ちは分る筈。私もこの言葉を彼に贈りましょう。

「ありがとう、言葉をくれて。私もあなたが好きです」

其の言葉が必ず彼に届くと信じて。

たとえ繰り返す愚かな私達でも、其の繰り返しの中で確かに何かを手にするのだと私は思うのです。ただ不満をぶつけているだけでは駄目なのです。誰かの揚げ足ばかり取る事を考えているだけでは、恐らく何れ其の人も同じように痛い目を見るでしょう。私自身がそれを経験してきたのですからよく分ります。
何が言葉の暴力か、其れすらも分らぬ愚か者。裏の世界を知っている者だけがその真理を知っているのだと、最近の私は思うのですよ。

綺麗な言葉。
簡潔な言葉。
辛辣な言葉。
乱暴な言葉。

私はもう騙されない。

構うなと言いつつ本当は構われたくて仕方ない、そういうものです。今までの私もそうでした。そんな者程、物事の本質など分ってはいないのです。私も何も分っていなかった。少しは賢くなれただろうか。なれたと信じたいですね。

しかし、未だに己に正直に行動しない者もいます。



愚かなのは誰なのか。
其れを考えてみるといい。
私は認めない。
私は許さない。

絶対に許さない。
君にも羽がある
「彼女の夢」で書いた「羽」の話。
彼に逢いに行きたかった彼女が羽を欲しがったのは誰でも想像がつく。

其れは自信なんだ。
其の自信である羽は心がけ次第で手に入れられるものなんだ。

彼女にも雛が放たれた。
しっかりと手にした。
私と同じように。
君は何処にでも飛んでいけるんだよ。
もっと自信を持って。
知らなかったでは済まされない
何時の事だったか、TVで中学生がインタビューされている所を見た事があります。其れを見ていて、私が尊敬している作家が似たようなテーマで日記を書いていたのを思い出したのです。

TVの内容は、少女達がお小遣い稼ぎで男性とお茶を飲んだ事があるというものでした。その様な事をしている少女達は結構いるそうですね。今ではもう珍しい事ではないのでしょうか。途中からだったので、お茶だけで済んだ話しか聞かなかったのですが、恐らくもっと危ない事までしてしまう子もいるのでしょう。

お茶飲んで話をして3000円。其れは確かに美味しい話です。

其処で件の作家の書いていた事なのですが。ある新聞に「何故少女たちはそんなにお金が欲しいのか」と書かれていて憤慨したと書いていたのです。そんな事も分らないのかと。少女たちが欲しがる物が巷に溢れ返っているからだと。そういう物はお金を出せば手に入るのだと。そんな社会が悪いのだと。

世の中に物が溢れているのを悪い事だとは私も思いたくないです。私も今の暮らしからもう離れられないし、パソコンなど便利なアイテムも世の中が裕福だからこそ手に入るのだし、そのおかげでこうやって優雅に何かを書いていられるのですから。だからこそ、世の中が貧しくて何もない時代に戻りたくないと誰でもが思うし、そういう時代が本当はいい時代だったのだよと分ってはいても、それでも懐古主義を気取りたくもないのです。
ですが、子供達の欲望に油を注いで燃え立たせているのは、間違いなく其の裕福な社会なのです。

しかも、子供たちは大人たちの庇護の下、我慢する事を知らない。

昔の大人を引き合いに出す事はあまりしたくないのですが、しかし昔は殴ってでも子供を従わせる大人たちが当たり前にいたように思います。今は「虐待」だのそういう恐れから子供に手を上げるなんて───という風潮が蔓延しているのですが、子供には少々手荒に接していいと私は思っています。
確かに「虐待」と「躾」の境界線は難しいとは思います。其れがきちんと理解できている人間が今はほとんどいないと思いますしね。

件の作家も「社会が悪いと言うと無責任だと言われる」と言っていました。矢張り社会が悪いのだと私も思っています。誰か一人が悪いわけではないのです。欲しい物が欲しくて金を盗んだり売春したりする子供も悪ければ、其れを育てた親も悪いし、また其の親である人間が社会を構成しているわけですから、結局は社会全体の問題となるわけです。だから社会も悪い。
しかし、其の社会を構成している人間一人一人はちゃんとした意思を持っているわけですから、本人がもっと明確な意思でもって「何故少女はお金を欲しがるのか」を知ろうとし、其れが「欲望である」と分れば、「その欲望を制御するにはどうすればよいか」を知ろうとすればいいのではないでしょうか。

やはり考えなくてはならないのですね。知ろうとしなくてはならないのですね。知らなかったでは済まされないのでしょう。
悩みを聞いて欲しい
私の好きなアーティストがこんな事を言っていたそうです。

「悩みを相談したい人はそれを解決して欲しくて相談しているわけでなく、ただ聞いて欲しいだけ」

其れを聞いて私はある作家を思い出しました。其の作家も彼と同じ事を言っていたからです。そして、彼は更にこんな事を言っていたようです。

「悩んでいる自分が好きなんだ」

そうですか。しかし、其れは違うのではないでしょうか。勿論、彼も悩んで誰かに相談している人の全部がそうであると言っているわけではないのでしょう。ですが、得てしてこういう事を聞いたごく一部の者は、憤慨して彼の事を叩く事でしょうね。私は件の作家が似たような事で叩かれていたのを見てきたので、容易に想像ができるのですよ。

話を戻します。

好きかどうかは別として、解決したいとほとんどの者は思っている筈だと私は思うのです。が、恐らく彼は自分が相談を色々受けてみてそういう風に感じたのでしょう。とはいえ「悩むのが好きなのだ」と断定してしまうのは少し短慮だと思います。
しかしながら、確かに彼が言うように「本当に解決したいと思っているのだろうか」とそう感じさせてしまう人もいるでしょう。恐らく本人も気付いていないのではないでしょうか。だから「解決したいって思っていないのでは?」と言われれば、如何しても怒り出すのは仕方ないのでしょうね。

彼は「答えは自分の中にある」というような事も言っていたようですが、実は其れは私も「そうだな」と感じています。
つまり、他人に自分の悩みを話していく事によって自分の中の答えを見つけていくというのが、自分の中の答えの意味なのだと。ですから、彼が言っているような「悩んでみたい」とか「悩んでいる自分が好き」とか、其れが真実なのだとは私には思えないのです。

私は彼の事は好きですが、しかし、だからといって彼の言う事が全て正しいのだとは思っていません。かなり核心をついてる事も彼は言う事もありますが、「それは違うだろう」と思う事柄もあります。

其れでも私は彼の行く末を見守り続けたいと思っております。其れを許して下さるというのなら、ですがね。

  

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