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↑の写真提供: やちこさん
記憶の中の君
人の記憶というものは曖昧なのだと聞きました。記憶は微妙に自身で改ざんしてしまっているとか。そのせいなのか、子供の頃からつけている日記を読み返すと、首を傾げてしまう事もよくあります。確かに書かれている事の記憶はあるのですが、記憶と微妙に違うのですね。其れから、書かれている事の一部はすっぽり記憶から抜け落ちている事もあったりします。その様な訳で、私は最近では幼い頃の記憶を全面的に信じる事ができなくなりました。

はっきりと昨日の事のように覚えている君の最期の姿。まだ引越しをする以前の家の庭での出来事だったから、私が小学生五年以前の話だっただろう。四年か或いは三年、もしかしたら二年生の時だったかもしれない。君を探してそこら辺を探し回った。誰も探し出せなかった。だが、私だけが君を見つけた。君の棲家だった小屋の後ろ、隣の家の塀との境目に、君は横たわっていた。まるで隠れるようにひっそりと。君の口が開いて舌が出ていたのを、歯と歯茎が見えていたのをはっきりと私は覚えている。その記憶も、脳裏にこびりついて離れない君の最期の姿も、この明瞭なる画像ももしかしたら私の作り出した妄想だったのだろうか。

子犬を浜から拾ってきたことは確かです。母に聞けばその子犬の話で「懐かしいねえ」となることでしょう。そして、死んでいったことも確かにあった記憶だと思います。ですが、しっかりと脳裏に残っているその犬の最期の姿は、本当に私は見たのでしょうか。本当にこの記憶は確かにあったことなのでしょうか。何故でしょう。他にも生き物は飼ったのですが、猫や兎や一時的に鳥も飼ったこともあります。全て子供の頃のことですが。其れ等については記憶に疑いはないのですが、何故か、其の犬だけは「本当に私は死んだ犬の姿を見たのか」と思ってしまうのです。其れはあまりにも鮮烈に私の記憶に彼の姿がこびりついて離れない為に。

記憶の中の君は私に見つかったのか?他の家族ではなく?本当に私に見つけられたのか?

其れを知る者は何処にもいないのです。私の記憶を確かなものなのだと断定してくれる人は何処にもいない。だから私は日々あった事を書き付け続けなければならないのかもしれません。この記憶を肯定してくれる証人として。