Photo: 「無敵の心身」
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伝えるということ
どんなに良いものを書いていたとしても多くの人々の目に触れなければ、其れはただの自慰行為でしかないということは私にもわかっております。しかしながら、これは良いものだよと声高に叫んだとしても、其の行為を快く思って下さる方もいると同時に快く思わぬ人々もいることは確かです。しかも、快く思わぬ人々の方が多いように私には思えるのですよ。

感動は共有できる場合もありますが、すべての人の感動のツボは一つではないのです。だから、あなたが感動したとしても、其れを他人も同じように感動するとは限らないと私は思うのです。

ですが、自分が良いと思うものを言いたいという気持ちは私にもわかります。そして、それを何とか不快に思われないように「私は好きなのです」と届けられる事が出来たらと思っているのですが、なかなか難しいものですね。ただ、思ったのですが、何かを伝えたいと思って書かれた、或いは表現されたものを目の前にした誰かが、たとえ伝えたいと思っていた人の意図とは違ったものとして受け取ってしまったとしてもそれはもう仕方ないことなのではないでしょうか。全ての受け取り手が器のある方々とは限りません。ちゃんと受け取ってくれる人は少なく、自分勝手に受け取ってしまう方々の方が多いと私は思っております。其れに、受け取り手だけでなく、伝える側の力量もあるでしょうしね。どちらが悪いのかとは誰にも決められないと思うのですよ。

ただ、受け取って貰えなかったという口惜しさは次の表現に活かされることもありましょう。ですから、私も其の口惜しさを否定するつもりはありません。自分はきちんと伝えるぞ、自分はきちんと受け取るぞと精進すれば宜しいのですから。良いものを良いと伝える。其れは私も及ばずながらやっているつもりです。私は私のやり方で。誰にも理解はされないでしょうが、私は此れからも私のやり方で伝えていきますよ。
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手放す事もまた愛なのだ
時折りアクセス解析を確認してみるのですが、今朝は「彼の冷たい視線の夢」というキーワードでアクセスして下さった方がいたようです。「冷たい視線」という言葉で私の過去に書いたエントリがトップにありました。其れが「冷たい視線は醜い心の表れ」です。2005年4月14日に其のエントリは書かれているのですが、こんなものを私は書いていたのですね。恥とも言える私の愚かな過去を。

何処かで元気に暮らしていると祈ってから4年。君はもう既にこの世の人ではない。君は旅立ってしまった。君が亡くなったと知った時、私は探したよ、君から貰った最後の手数を。だが、探しても見つからないのだ。あの手紙はいったい何処に行ってしまったのだろう。こんなふうにして、私は手放したくなかったものをどんどん手放していくのだ。だから、私は、二度と手放すものかと益々執着してしまうのだろうな。なんと愚かな。時には手放すことも愛なのだろう。その見極めが出来る自分でいたいものだが。

失う怖さを覚えたから他人との関係を取れるようになったと私は書いたのですが、果たして其れは本当にそうだったのだろうかと今は思っております。むしろ、失ってもいいという気持ちがあれば、互いに傷付けあう事もなくずっと一緒に歩いていけるのではないでしょうか。そんなふうに最近では思うようになりました。ある人のおかげで。本当に失いたくない人なら、一緒に歩いていて道がそれてしまっても、いつかまた再び巡り会って一緒に歩ける時もくる、と。自分が自分らしく生きていけば、失いたくないと思っている人もその気持ちをきっとわかってくれるはずだ、と。無理に自分の歩くペースに巻き込まなくても、それぞれがそれぞれの場所で自分のペースで頑張っていれば、そして、それを「あいつも頑張ってるな」と見て自分も頑張れる、そんな関係が一番良い関係なのではないかと、そんなふうに思えるようになりました。

だが、其れも死んでしまってはどうしようもない。私は生きねばならぬ。私が愛する友人達の為に。「ああ、あなたも頑張ってるんだな。自分も頑張ろう」と、そう思って貰う為にも。君よ、天国にいる君よ、私を許して欲しいとは思わない。だが、私は過ちを抱えたままでも生きる価値はあると思っているよ。同じ過ちを抱えている人の気持ちが私にはわかるからだ。それだけでも生きている価値はある。そうは思わないか?たとえそれは欺瞞だと謗られようとも、醜い心の持ち主だと石を投げられようとも、私は私の信じる道を進むだけだ。それが私の本当の友情なのだと信じて。
私は此処で佇んでいます
私が時々読ませて頂いているブログで、ニュースサイトに取り上げられることについて書かれている方がいました。

私のブログは過去に何処か大手のニュースサイトに取り上げられた事は無かった様な気がしますが、其れは私が気がついていないだけなのかもしれません。時たま、えっけんさんがブックマークをして下さる関係でアクセス数が上がる事もあるのですが、その数字は其れほどの数字でもありませんし、私の書く物は誰かにとって役立つ物でも御座いませんので、恐らく、何処かのニュースサイトで紹介される事も無いでしょう。よしんば紹介されたとしても、アクセス数を稼ぐという事も無いと思われます。勿論、一時はアクセスは上がるのでしょうが、其れも潮が引いていくように、日参して下さる方が増える事も無いでしょう。第一、このブログの更新頻度が余りにも少ない為に、毎日通う方も居られないでしょうから。

さて、たとえばニュースサイトで取り上げられた事で異常なくらいのアクセス数があった場合、果たして私は嫌だと思うでしょうか。其れとも怖いと思うでしょうか。昔は其れなりに沢山の訪問者があれば嬉しく思っていた時もありますし、訪問者が多過ぎた為に、色々と大手の掲示板で口さがない事も言われた経験もあり、一時はウェブ上で何かを書く事を怖いと思ったこともありました。ですが、私は其れ以上に何かを書きたい人間でもあった為、誰に何を言われようとも書きたい事を書いていこうと思ったものでした。そして、私は此処に居ます。最近では其れほど書く事に躍起になる事はないのですが、まだ書きたいという気持ちが薄れたという事はありません。其れもあり、私は此処を閉鎖する事も無く、たとえ更新を昔ほどしていないとしても、残して置きたいと思っているのです。其の理由の一つには、此処で知り合った方々との繋がりを切ってしまいたくないからなのです。

私が此処で変わらず佇んでいれば、きっと「そんな人もいたな」と思い出して下さった何方かが、訪れて下さり、「ああ、メノウさんは元気みたいだ」と思って下さる、そして、メールを送って下さる事もあるかもしれないと、そう思うからこそ、私は絶対に此処を閉鎖するつもりはありません。確かに、私のこのブログも炎上してしまう恐れが無いとは言えませんし、其れが原因で閉鎖の憂き目に遭われたブログも過去に多くあった事を考えれば、私のブログもその様な事が何れ起きてしまうやもしれませんが、私は其れでも閉鎖はしたくないと思っております。見っとも無い姿を晒したとしても、私は佇んでいたい、そう思っております。

だからと言って、私は強くはありません。トラックバックもコメントも受け付けておりますが、強いからそうしている訳ではないのです。ただ、私は私の書いた物に対して、他人はどう思うのか、どう感じるのかを純粋な好奇心から知りたいだけなのです。ネガティヴなコメントには私でさえも嫌な気持ちにもなります。ですが、私は其れでも誰かの心を知りたいと思うのです。尤も、そう思うのなら、連続更新を再開するべきなんですが、なかなか私に自分語りをさせるほどの誰かの書いた物が見つからないのですよ。ああ、いけませんね、他人のせいにしてしまうのは。私自身のアンテナが鈍感になっているというのが本当の所なのでしょう。

今日は書けて良かったと心からそう思っております。書かせて下さった方々には感謝しております。有難う御座いました。

  

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