Photo: 「無敵の心身」
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何が裏切りであるか
今は読めないエントリに「本当に本当に大事なものは、たった一人でもいいから、この人は自分を裏切らない、と信頼できる人の存在なんだと思う」と書かれていた。

私は「私にも居ます。だから私も誰かにとって裏切らない存在になりたいのですが、難しいですね。人の心は変わりますから」とブックマークコメントを書いた。

私が裏切っていないと思っていても、其れを裏切りと取る者も居る。
其の人が私を裏切っていなくても、私にとっては其れが裏切りと感じる事も有る。

そんなことは承知の上で、今でもずっと関係が保てている人を此れからも大事にしていきたい。
心の底からそう思った。
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心安らかに其の時を迎えたい
「夢の中では死んだ人は話をしない」と聞いた事があると、以前、Mappyさんがご自分のブログで書いていた事があったのですが(「Mappy! 明け方にみる夢」参照)、その時のブックマークのコメントに私は「私の見る夢でも死人は口を開きますし、風景にも色は付いていますし、食べ物も味が付いております。ですので、私にとって夢の方が現実味があるのですよ」と書きました。

如何して夢の中の死人は話をしないというのか、その根拠はわかりません。知り合いの女性も死去したご自分の夫がよく夢に出てくると言っていましたが、生前と同じように喋っていたそうですし、私も幼馴染に若くして死んだ者がいますが、その人も私の夢に出て来て普通に喋っていました。

たまたま、このエントリを書こうとしていた先程、見ていたテレビ番組でとある芸能人の女性がご自分の友人が幽霊となって出てきたのだと話していました。その女性は寝ていた所を肩を叩かれて目が覚めて、目の前に友人が立っていたそうですが、その死んだはずの方はご自分が死んでいることをはっきり自覚しており、残された他の友人や家族に言葉を届けて欲しいと頼まれたそうです。自分が死んだのは寿命だったんだ、あちらの世界で元気にやってるから心配するな、みんながこっちに来るのを待ってるからと。

話をしていた芸能人の方は、確か以前にも似たような霊体験を話していたのを見た事があり、私はその方の言うことは信用してもいいなと思っておりました。ですから、今回の話を聞いて、ああ、死んだ人達はきっとみんな元気に楽しくやっているのだなと信じられました。私の幼馴染も夢の中で何処かに行こうとして私がついていこうとしたら「あなたはまだ来られない」と言っていましたが、あれも恐らくメッセージだったのでしょう。その夢を見たのは何時だったか正確な月日は忘れました。ただ、誰かが死ぬ度に私はその人を思い出してしまうのです。忘れることのできない人なのですね。

ですから、何となくではあるのですが、私が死ぬ時、その人が私を迎えに来てくれるようなそんな気がしています。出来れば、心安らかに死んでいければいいなあと思いつつ、去年の今頃亡くなった、私が一番尊敬していた方の事も思い出していました。勿論、先頃亡くなった屁爆弾さんの事も。お二人とも何処かで元気に過ごしているのでしょうね。何時か、其の場所で出会える事を楽しみにして、頑張って生きていきましょう。
私小説であるブログを愛する
もしかしたらお気づきの方もおられるかと思いますが、過去にブックマークをしたものを整理している所です。リンク先のエントリがなくなってしまったものは思い切って削除したり、ブックマークをしたエントリを読み返してみたり、ブックマークを付け直したりとしている所なので、ご迷惑をおかけしていると思います。申し訳ありません。

そんな中で何かエントリで書けるものがあればこんなふうに書くこともこれからはあるかと思います。今回はこちらのエントリ「なぜ「わたし」は「小説」を読まないのか。 - こころ世代のテンノーゲーム」を読んで、少々思ったことがあるので書いてみます。簡単ではありますが。

ミステリー、ファンタジー、SFは私も好きです。とくに子供の頃はそれらのジャンルの小説は現実を忘れさせてくれるという理由もあったから夢中で読んでいたと思います。それが、最近ではあまりそれらのジャンルは読まなくなったようです。私がもう若くはないからというのもあるのでしょうが、それでも年を取ったとしても、そういったジャンルの小説を死ぬまで好きで読み続ける人というのもいるでしょうから、私は年齢が移りゆくことで興味の対象が変わっていくタイプだというだけに過ぎないのでしょう。

取り上げたエントリを書かれた方は、私小説や群像劇や恋愛を好まない人らしいのですが、その理由として挙げられている他人の心に興味がないから読まないというのは私にとっては違和感がありました。ミステリやファンタジーやSFにも他人の心はこれでもかと描かれているものもありますので、何方かもコメントをされていたようにジャンルで、これは読む、これは読まないというのは少し違うのではないでしょうか。ただ、気持ちはわかります。私小説や恋愛小説などを苦手で読みたくないというのは結構聞きますから。もちろん、苦手である理由は苦手な人の数だけあるかと思いますので、それが私小説だから、恋愛小説だから、だから読みたくないというのでは説得力には欠けます。

そうですね。私も恋愛小説はあまり読みません。ですが、恋愛を読みたくないというわけではなく、作品によっては恋愛が描かれていないと物足りないと思うものもあります。ジャンルで読みたくないとか、作家で読みたくないとか、そういったことは私には言えないわけです。私はどちらかというと他人の心を描いたものが好きなのです。ですから、そういった類の小説はどんなものであっても読みたいとなるのです。そして、そういう小説はどんなジャンルの小説であっても読みたくなります。なので、その逆で、それがミステリだろうがファンタジーであろうがSFであろうが「人が見えない」ものは途中で読むのをやめてしまいます。最近読んだミステリ小説では、歴史的な考察ばかりが延々と書かれていたために途中で読むのをやめてしまいました。その小説では「人が見えてこなかった」からなのです。

私は自分の心にも興味はありますが、それ以上に他人の心にとても興味があります。それは興味を持たれてしまった相手にとっては気持ちの悪いことでしょう。こんなふうに誰かの心が書かれたブログを読んではそれを取り上げて語ってしまったりするわけですから。相手にとっては不本意だと思われることもあります。それでも如何しても私はやめられない。ネット上に存在するブログの中でも自分の心を綴る、つまりは私小説のようなそんなブログは多いと思います。私はそういったブログを読むのが好きなのですよ。ブログは小説ではないと言われる方もいるかと思いますが、私にとっては他人の書くものは其れが事実であっても小説なのです。愛しい小説なのですよ。

私はこれからもそんな私小説めいたブログを読み続けるでしょう。
私は私を救いたいが為に書いている
屁爆弾さんのエントリを全部読みました。全部と言っても、はてなダイアリー以前のエントリは読んではいないし、はてなでの過去ログもどうやら多くのエントリをご自分で削除されているものもあるとの事なので、全部読んだと言うのもおこがましいことではあるのですが、とりあえず、残されたエントリは読ませて頂きました。

読み終わって最初に思った事は、矢張り、私という存在は彼女にとっては嫌われる存在であったのだなあという事です。


屁爆弾さんは「あたしはあたしは」「僕は僕は」といった書かれ方をしているものをお好きではないようで、私が彼女が私を好まないのではないかと思った理由が其れであったのであります。私の書くものもまた「私は私は」と書いていたからです。
「菓子パン袋の売り文句を読み比べる - 血止め式」で「日記ブログと菓子パン袋はあんまりぎゃぴぎゃぴ騒々しくないのがヨロシイな。」と書かれているのですが、私の書くものも其れと似たような感じであると私は思っておりますので。

ただ、「わらいかわせみに話すなよ - 血止め式」のコメント欄で屁爆弾さんの書かれている事を読み、ご自分がお嫌いな「ご自分史大長文書き」タイプの日記の事を嫌いではあっても全く否定するものではないといったふうに気持ちが変わっていっているのを感じました。其れが嬉しかった。そこに理解し合える可能性を信じられたからです。
私の友人にも、自分の経験や気持ちや考えなどをこれでもかと長々と書いている者もいますが、私自身はそういった方の書かれるものも好きですし、そういった生活臭だの感じられない簡潔ですっきりと洗練されたものを書かれるものも好きなのですね。つまりは、どんなものであっても、「其の人」が書かれるものであればどんなものでも読むという気質の人間なのです。其れなりに好きな文章はありますが、文章ではなく書かれる方が私にとって一番重要であるのです。そういうことで、恐らく屁爆弾さんと私では気質も考え方もスタンスも全く違うと思ったのです。ですが、其れでも、屁爆弾さんの懐の深さと私の努力さえあれば、気持ちの良いお付き合いをさせて頂けたのかもしれません。其れを思うと、本当に残念でなりません。

私の書いたエントリに屁爆弾さんの御姉様から「病が癒えて帰るのをこれほど心から待ち望んでくださる方がいて妹もどんなに心強かったかと思います。有難う。」という勿体無いお言葉を頂戴して恐縮しております。ですが、私は何もしておりません。悲しむだけ、自分の気持ちを書いただけ。其れが何となりましょう。其れが彼女の命を救ったというのならば意味はあるのでしょうが、私はただ書かせて貰っただけなのです。誰かを救う為ではなく、私は私自身を救う為に書いてしまった。其れだけなのです。本当に愚かな私。其れが私という人間なのです。

死という別れではないけれど、過去に知り合った人達で、私の前から姿を消してしまった人達の事を何だか思い出してしまいました。このブログで知り合った方々の事とか、ここで書く以前に知り合った方々の事とかを。私は愚かにも、これからも誰かとの別れでそういった人達を思い出すのでしょうね。屁爆弾さんの事も。こんな私を彼女が生きていたらどう評したのでしょう。聞きたいような聞きたくないような、そんな複雑な思いを抱いております。
あなたに頂いた言葉を抱いて
屁爆弾さんが亡くなられました

先日、私の書いたエントリに「shimamenouさんのために這ってでもネットに戻って来なくてはいけませんね」「次に復帰した際にはまた立ち寄らせてください」とコメントを頂いたのですが、もう彼女は二度と此処に戻ってくる事はないのです。私も体調を崩しがちだったので、私を気遣っての言葉だったのでしょう。まだ知り合って間もなかったのですが、彼女がどんなにお優しい方かがわかるような気がします。

人というものは接してみないとわからないもので、彼女に話しかける少し前に彼女のエントリをざっと見た時に、この人は私のようなタイプの人間はお嫌いなのではないかと思ったこともあったのですが、話しかけてみて、意外にもよく知らない人間にも気遣いを見せてくださる素晴らしい方であるとわかったものでした。ですから、ああ、話しかけてよかった。これから少しづつでもお付き合いさせて頂こうと思ったのです。

彼女は私のエントリのブックマークのコメントに「shimamenouさんは決して交流下手なかたではないよ。たぶん相手に丁寧に寄り添おうとするあまり、人よりもお気持ちが折れ易いのだと思います。少数の人たちと長くつきあって行けるといいですね」と書いて下さいました。私がこのコメントでどんなに救われたか、恐らく彼女にはわからなかったでしょう。
少数の人たちと…それには屁爆弾さんも入って下さればと願っておりました。それは叶わぬ願いとなってしまいましたが、彼女が下さった其の言葉を胸に、これからも私は少数の人たちと長く付き合っていきたいと思いました。

屁爆弾さん、今朝の夢にあなたが出てきましたよ。何故か、あなたはあなたのお母様と思われる方とご一緒でした。あなたにもあなたのお母様にもお会いなどしたことないというのに、私にはそれがあなたとあなたのお母様だとわかったのです。嬉しい気持ちで目覚めました。昨夜は何も書けない、あまりにもあなたの死で衝撃を受けてしまったので、とても何かを書くということは出来ない、書けるのももっとずっと後になってからだろうと思っていたのですが、今朝の夢にあなたが出てきたおかげで「書こう」と思えたのです。私の勝手な想像なのですが、あなたが「何か書いて下さいよ」と言っているような気がしたのです。

多くの方があなたの死に胸を痛めております。そして、あなたのことをブログに書いている方もいます。私もその一人です。
私もいつか私が死んだ時、残された誰かの心に「こんな人がいたんだ」と惜しんで貰え、そして、思い出すことで優しい気持ちになって貰える人になれるでしょうか。今のままでは恐らく無理でしょう。ですが、ごく少数の人にはそんなふうに思って貰えることは可能だと思いますので、背伸びをせずにこのままで立ち続けたいですね。私が尊敬していた方も、昔の同僚も今月が一周忌なので、これからは五月は屁爆弾さんを入れて三人の方を偲ぶようになるでしょう。屁爆弾さん、安らかにお眠りください。
評価しなくてもいい、あなたが見てくれるのなら
屁爆弾さんが書かれていた「「見てほしい」と「評価してほしい」は別物 - 血止め式」を読んだのですが、ブログにおける「話術」というものを確かに私も私なりの「話術」で書いているつもりです。


私の知り合いが「ブログなどで何かを書くということ自体がすでに誰かに読んでもらいたいからであり、その誇示の仕方が過剰であっても控えめであっても同じ事なのではないか」と言っていたのですが、その方は誇示の仕方では読む気が失せたり読む気になったりとはしない方なのですね。自分が読みたいと思うものがどんな表現をされていても気にしないという人らしいのです。内容が一番重要であるという考えのようなのです。それもあり、その方はご自分が興味あることを書く場合に、読者のことなど全く考えずに好きなように書いているようです。それもあって、その方が書かれたエントリは一部の方には不快に思われたり、もっと読者を考えて書けば良いのにと言われたりしているようです。


私も知り合いに近い書き方をしているつもりです。なので、恐らく多くの方に読まれないのも其れが原因ではないかとは思っているのですが、私は多くの方に読まれたいと思っているわけではないのでこのような書き方でも構わないでしょう。ただ、私も人並みに「この方には読んで貰いたい」と思う事もあり、時折り、読まれたいと思う方の好みの書き方をしたいという誘惑に駆られたりする事もあります。なので、その方が反応して下さるような書き方をしてみたりするのですが、其れは何時も失敗に終わってしまうようです。仕方ありませんよね。私のような文章センスの無い人間には趣向を凝らすことなど無理なことなのですから。ですから、自分の書きやすいように書きたいことを書けば良いのでしょう。私がブログを続けていく為には其れしか方法は無いと思われます。


其れから、屁爆弾さんのエントリの最後にはてなスターの話題が書かれているのですが、私の友人も同じような事を言っていましたね。はてなスターはどんな使われ方をしてもいいのですが、私や友人の場合は必ず「どうしてもこれにはつけたい」という気持ちでスターをつけるようにしています。ですが、なかには「読みましたよ」という表明だけですべてのブックマークやエントリにつける方もいて、私の友人は「それは困る」と愚痴を言っていました。私などからすれば、ほとんどはてなスターをつけられることがないので、困ると言うのも贅沢な悩みだよなあと思ってしまうのですが、ご本人にとっては好意でつけられている分、やめてくれと言うのも言い難いことであり、なかなか対処に苦慮しての発言だったのでしょう。コメント欄で自分のエントリについたブックマーク全てにはてなスターをつけられる方の話がありましたが、そういった場合、ある程度、相手の方のはてなスターの扱い方を知っていれば、ここぞという時だけにブックマークをつければ避けられる事でもあります。人によってはどんなスターでも欲しいと思う方もいるでしょうから、そういった全てにスターをつける方がいても良いのではないかというのが私の考えです。
とは言え、確かに屁爆弾さんがコメントで「そう誰もが言えることじゃない」と評されているように、私も「困る」と、きちんと相手に言う事の出来る態度は良い事だなあと思いました。私も見習わねばと思ったものです。


其れにしても屁爆弾さんのエントリの最初に出てきた佐藤春夫という方なのですが、詩人である事は知りませんでしたけれど、どこかで聞いた名前だと思って、ごそごそと子供の頃のノートを取り出してみたのです。すると、一編の詩が下手糞な字で書き写されているのを見つけました。このノートは私が丁度中学生の頃の多感な時期に目にした好みの詩や言葉などを書き写したもので、書き写された佐藤春夫の其の詩は「水辺月夜の歌」という詩でした。此処ではその内容は載せませんが、その内容と解釈が書かれているものが検索で見つかりました。

「水辺月夜の歌 佐藤春夫 - Yahoo!知恵袋」

中学生当時の私がこの詩をきちんと解釈したかどうかは覚えていませんが、確かに当時の私は誰かに恋していた筈なので、この詩が私の幼い心にも響いたのでしょう。其の頃の私を優しく抱きしめてあげたい気持ちになりました。

君は卑しい人間なんかじゃないよ。
どんなに自他とも認める卑しい人間であったとしても。
少なくとも今の私よりは絶対に卑しい人間なんかじゃない。

そんなふうに大人になった私があの頃の自分に言って抱きしめたとしたら、あの頃の私はどうするでしょうね。もう当時の私の気持ちは想像も出来ませんが。其れだけ、私も大人になったということなのでしょう。喜んで良いのか、悲しんで良いのか…複雑な気持ちでもあります。

  

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