Photo: 「無敵の心身」
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記憶は森に抱かれている
「書くことによって、思い出は過ぎ去ったものにならず、繰り返しよみがえってくる」

こう言ったのはフランスの作家フィリップ・フォレストなのですが、思い出したくない思い出が繰り返しよみがえってきてもそれでも書くという心境は如何いうものなのでしょうね。
彼が「永遠のこども」を執筆したのは、自分の娘を小児癌で亡くしたのがきっかけだったのですが、次の言葉でその答えが分かると思いますし、少なくとも書き手と言われる方は共感するのではないでしょうか。

「哲学はすべては死を迎えると言う。宗教なら神の御心と言う。しかし小説だけが"意味"から離れ、不条理に立ち向かい、悲しみ"そのもの"を受け止められる。」

生き物は全て死ぬ、例外なく。ですが、彼にとって娘の死は運命が彼に対して暴力を振るっているとしか感じられず、全く意味付けが出来ない出来事なのです。
大切な誰かが死ねば、それは誰でもが感じる理不尽さ。たとえどんなに日頃から「いつかは皆死んでしまうのさ」と他人の生き死にに無関心だったとしても、そんな人でさえも己の大切な人が死んでしまえばこう叫ぶでしょう。

「如何してその人が死ななければならないのだ?」

全ての人が書くことで死と向き合い、受け止める事はないでしょう。しかし、確実に彼のように書くことで乗り越える者もいるはず。
兎角身内の死や闘病を書く事は非難の対象になったりしますが、それは彼のように大事な人を亡くした経験がないからかもしれませんね。

辻仁成の「永遠のこども」の感想を読んで感じたことなのですが、矢張り作家というものは「書かずにはいられない」のだなと思いました。(参照:「青春と読書」

それにしてもどうでもいいことなのでしょうが、フィリップ・フォレストは今まで読み手に徹していた前衛文学の研究者だったのですが、もし娘さんが病気にもならずに普通に育っていったとしても書く側の人間になったのだろうか、と。
そして、これもどうでもいいことなのですが、私は「フォレスト」という名前が好きです。
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