Photo: 「無敵の心身」
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狭量な極楽など
彼は末期癌だったのだな。

治療を続ける事に負けたのだと彼の息子は言った。
恐らくそうなのだろう。
だが息子の嫁は末期癌である事を知らされていなかった。
彼の妻が子供達に知らせたとしても、如何する事も出来ない事を知っていたので知らせなかったのだ。

彼は息子の嫁をとても可愛がっていた。
よって息子の子供も目に入れても痛くない程の可愛がりようだった。

私も彼と同じ立場になったとしたら、同じ行動をしてしまうかもしれない。それは分からないが。
病に負けるという事は、本当は病に負けたわけでは無く、己の心に負けたのだと私は思う。
しかし、負けてはいけないとは誰にも言えないのではないか?
運命に逆らうなとか、運命を受け入れよとか、こんな場合によく持ち出される事なのだが、私はどちらが正しいかなど言えない。そして、誰も言えないのだ。

よく自殺をすると極楽には行けぬと聞くが、そのような狭量な極楽など私は要らないし、行きたくも無いよ。
神も仏も私を救うものではない。
何時でも私を救うのは、私が信じるその対象。信じる私のこの心。

それだけだ。
コメント
この記事へのコメント
死んだら…
何もない。
思い出に残されても、いつかはその人達も死んで行く。
誕生→消滅は生物体の定め。
心=命があるうちは、自分を救うのは自分の心だと思っています。
極楽なんて私も信じないし要らない。
どのような死に方をしても、死んだら平等に「無」。
死んだ後までどこかの世界で暮らすなんて、安息がないじゃないですか~。
死んだら潔く「無」に帰りたい。
ひどい犯罪者に「地獄に堕ちろ!」と言ってしまうのは、死などで安息を与える事は許さない、という事でしょうか。
2005/05/05(木) 01:30:10 | URL | やまめ #58P4njhc[ 編集]
その通りです
以前の私は、今の私の自我が無くなることを何よりも辛く思っていました。
今でも少々そういう気持ちは持っているのですよ。それは、私がとても自分が好きだからだと思うのですが、今の私は、もし来世があるとしたら、次は新しい自我で来世を生きたいと思えるようになりました。
その為、今やりたいと思っている事を存分に納得いくまでやっていこうと思っています。

ですから、今の私もやまめさんと同じで、死んだら「無」に還りたいですね。

「地獄に落ちろ」という言葉は、気付いていないとしても、相手に対して「許さない」という気持ちがあるから出てくる言葉だと思います。
ですから、ほとんどの方が「死」とは安息であると感じているのでしょう。

「死」とは「恐れ」と「安息」二つを人間に提示しています。
死にたくないという想いと、死んで楽なりたいという想いの狭間で私達は生きていく。それが私達の生きる生というものなのだと私は思っています。
2005/05/05(木) 09:26:43 | URL | 縞瑪瑙 #XWELPq6Y[ 編集]
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