Photo: 「無敵の心身」
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声無き声で叫んでいる
友人のやまめさんが以前「善人になるための理屈/「人間らしさ」とは?」というエントリを書いていたのですが、それのコメントを私は掲示板に残しました。以下、私と彼女のやり取りです。(掲載許可は取ってあります)

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私「以前の私は、自分を弱者のように見せかけたような文章を書いていたように思います。
自分ではそういうつもりはなかったのですが、最近ではどういった方が弱者を装っているのか、或いは本当の弱者なのかが何となくわかってきたような気がします。
ということで、私は自分が弱者ではないなと思うに至りました。」

やまめ「弱者の定義は難しいです。何をもって人を強者と弱者にカテゴライズするのか。私が弱者という言葉に抱く危機感は、弱者と強者の間に明瞭な線引きをしてしまう事に対する危機感です。「強者」を想定するから「弱者」が作られる、という向きも見えないでもない。「真の弱者とは何か」と追求すればするほど「強者」と「弱者」は対立項となり、遠い存在になる。ここで「中間」を取る人間はある意味卑怯だ、と思ったり。某氏の受け売りですが、「困った時はお互い様」くらいの気持ちに持って行ったほうがいいのでしょうか。この問題は、しばし保留しておきます。
それとは別に、普段私達は、多かれ少なかれ「弱さ」を見せる事によって得られる何かを常々意識しているのではないかと思うのです。弱さを見せることによって、「弱肉強食」「弱い者いじめ」の原理で攻撃される可能性も生じるが、見せ方や、見せる相手によってはかなり得をする事もある。これはもう赤ん坊レベルの刷り込みですから致し方ないとしても、弱さを見せれば庇ってもらえる、いい事がある、と計算してやってしまう人間はどうなのでしょう。そういう人は、弱さの見せ方に同情を買うような演技が自然と入り込んでいたり。
とりあえず私は自分を弱者にカテゴライズしないでおきます。何分、諦めが悪い、強欲な性質なので…。」

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強者と弱者の定義は「こうである」というのは本当に難しいことだと思います。
強い者であっても己を「弱い」と言う者はいるし、万人が認める弱者であったとしても其の方は「強いんですよ」と飄々としている場合もありますから、矢張り他人が「あなたは強いのだ」とか「あなたは弱いのだ」とは断言はできないのではないでしょうか。
勿論、そうであったとしても、感じ方は自由であるべきだと私は思いますので、たとえ誰かが私を「あなたは強い」「あなたは弱い」と言ったとしても「そうですか」としか答えようがないのですが。
昔の私なら「いえ、そうではないのです」と反論したでしょうが、今の私は他人が見る私に、私という人間の本質がちらほらと垣間見れる場合もあるのかもしれないという気持ちも抱き始めているのです。
たとえば「あなたは優しい」と言われ、それが自分にとっては不本意な事ではあったとしても、なるほどもしかしたらそういう「優しい私」というのも私の中には息づいているのかもしれないなあと思えるようになったからなのです。

それから、やまめさんが仰っているような、弱い自分を見せることで他者から庇ってもらおうとか、他者から優しくしてもらおうという気持ちというのは、恐らくどのような人間も持っているものではないかと私は思います。
心地良いものに人は惹かれると思うのですよ。
ですから、その心地良さを求めて、どうすればいいかと意識的なり無意識的なりで人間は行動を起しているように思います。
その心地良さを他者の善意に求める時、弱い自分を見せてしまうのではないでしょうか。
中には他者に求めるではなく、自己満足としての心地良さを求める者もいないわけではないのですが、その自己満足さえも他者の目がなければ自己満足にも浸れないというのが私の考えであります。まあ、要するにその自己満足で心地良さを感じているのが私であるわけなのですが。どういう自己満足であるかは、一つだけではないのですけれどね。ブログで己の考えを書く行為も私にとっての自己満足ではあるのですが、これも誰かの目が感じられてこその物なので、厳密に言うと矢張りこれも他者に心地良さを求めているとも言えなくもないのですが。

やまめさんが「弱さを見せれば庇ってもらえる、いい事がある、と計算してやってしまう人間はどうなのでしょう。そういう人は、弱さの見せ方に同情を買うような演技が自然と入り込んでいたり。」と書かれていましたが、確かにそういう方もいる事でしょうけれど、計算してやってしまう人間を誰が見抜くのでしょうね。
私もコメントでは何となくわかるようになったとは書きましたが、断言はできないのです。
誰が見てもその人は計算していると見えていても、私には「あなたは計算して弱さを見せている」とは決め付けることはできません。
私はどのような人が「こうである」と自分の事を告白しても信じたことがないので。
ですから、たとえ演技をしているのかもしれないと思ったとしても、その人が感覚的に好ましいと思えるのなら好きにすればいいと思っています。
計算して心地良く生きていけるのであれば、死んでしまうよりはマシであろうというのが私の考えです。
あなたがそれでいいと言うのなら、それで生きていけると言うのなら、誰かにどんなに非難されようともそのままで生き続けて下さい、と私は思っているのです。
生きること、それが私にとっての最大の大仕事であると思っているので、生きる為ならどんなことでもする人に私は好感を持ちます。

生きてください。
どんなことをしてでも。
それで誰かを踏みにじったとしても、私はあなたさえ生きてくれればそれで幸せです。たとえ誰に非難されても私はあなたさえ生きてくれれば───

そう伝えたい人が私にはいるのです。
大切なその人に声無き声で叫んでいるのです。
どうか私のこの想いが届くよう願って。
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