Photo: 「無敵の心身」
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愛がわかるとき
私の大切な友人は生まれ育った家を早く出たくて結婚したと言っておりました。親御さんを愛していないわけではなかったのですが、自分を管理し過ぎる親に辟易していたのでしょうね。それもあり、今のご主人と結婚したということだったらしいのです。勿論、好きでもない人とは一緒には暮らせない彼女でもありますので、ご主人のことは好きではあったそうです。ですが、それは「愛する」という気持ちであるかどうかはよくわからなかったそうなのです。長い間、彼女は自分は本当に夫を愛しているのだろうかと思い続けていたということです。

以前「病む世界」というエントリを書きましたが、それにも書いたように彼女は何年か前に精神的なことで身体を壊してしまった事があったのですが、其の時になってやっとご主人が何よりも大切であり、自分は夫を心から愛しているのだと気づいたということでした。とはいえ、彼女はそれでも「愛」についてよくわからないと言います。私も彼女と同じで愛の事はよくわかりません。昔、私の事を愛の溢れる人だと評した方がいましたが、本当にそうなのだろうかと今でも信じられない気がしています。

本当に?
私に愛が感じられると?

わかりません。私には何もかもわからないことだらけなのです。愛するとは一体如何いうことなのか、この気持ちは愛なのか、其れとも愛ではないのか、そんなことを考えてしまいます。ただ、言えるとしたら、愛とは一つではないということ。様々な愛があり、誰にも「其の愛」は否定は出来ないのだということ。と言うのも、「病む世界」で書いた私の友人が聞いてきた心の病になって都会から帰ってきた青年が、とうとう自殺して亡くなってしまったのですが、その親御さんが「三度目でとうとうくたばってくれた」と周囲に漏らしていて、其れを聞いたご近所の方が「酷い事を言う」と怒っていたらしいのですが、私には親御さんの愛は深かったんだろうなあと思ったのですね。深いからこそ、そんな言葉が出てきたんだろう、と。其れを話を聞かせてくれた友人に話したら「そうなのかな。じゃあ舅が死んだ時に姑が舅を非難していたのもそれと同じだったのかな」と言っていました。彼女の舅も青年と同じように首を吊って亡くなっているので、ひとごとではないと思っていたようです。青年が首を吊ってしまったことを聞き、かなりのショックを受けたらしいので。

一人一人の抱く愛というものは、他人にはわからないのが真実なのかもしれません。そして、それでいいのかもしれませんね。ただ、描かれている「愛」を目の当たりにして、自分の抱く愛に近しいと感じる愛は、確かに自分にはわかる愛ということもあるのかもしれません。そんな時、人は癒され救われるのかもしれない。きっと誰かは私の愛を理解してくれるのだろうと。
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